アモス7:10−15/使徒13:1−12/マルコ6:1−13/詩編107:17−22
「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」」(使徒言行録13:2)
今日お読みいただいた使徒言行録はパウロとバルナバのいわゆる第一回伝道旅行のスタートについての記事です。最初の伝道地として選ばれたのがバルナバの故郷であるキプロス島でした。
そこで待ち受けていたのが地方の有力者とその有力者に取り入って旨いことやっていた魔術師です。この魔術師エリマが二人の伝道活動を妨害し、地方総督セルギウス・パウルスが二人の話を聞くチャンスを邪魔したというのです。
故郷ということをマルコ福音書も書き記しました。イエスがナザレに帰ったときの話しです。故郷の人々はイエスについてよく知っていました。よく知っているが故に自分たちの理解を超えるイエスの振る舞いを受け入れられなかったのです。同じ話を書き留めるルカ福音書では、他の町々でのめざましい活躍を知ってイエスにこの街でもと期待する村人たちとイエスが激しく対立する様を描いています。
これらの聖書のことばを勘案すると、伝道するということは常にこの世の力と対立せざるを得ないこと、それはあらゆるかたちでの妨害を含むであろうこと、場合によっては宣べ伝える者の命の危険にさえ及ぶこと、にもかかわらず神のことばは広がってゆくことをわたしたちに示しているように思うのです。
そもそも使徒言行録はまさにその通りのことを書き記しています。そしてどうやら使徒言行録の著者はそういう教会を理想像として捉えているようなのです。迫害を受け、邪魔をされ、指導者たちのいのちに関わることがあったとしても、その総てが「教会」そのものであり教会がそういう歩みを進めることが理想なのだ、と。
先週わたしたちは「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧記念礼拝」を捧げました。日本基督教団が創立した当時、この国は戦争に突き進むまっただ中で、教会もその時局に沿い、国家の目論見を我がこととして歩んできた歴史を振り返り、「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」にあるように、教会がこれからしっかりと見張りの役を担うことが出来るようにとの願いを込めた礼拝を捧げたのです。
しかし、教会もこの地上にあっては人間がつくる組織に過ぎません。理想的なあり方を模索はしつつも、この世の制約を受けざるを得ないことは事実です。ちょうど今参議院議員選挙の時期ですが、「選挙」とは当選してナンボなのでしょう。どれだけ理想をたかく掲げても、有権者の支持を得てそれが実際に票に結びつき、他候補より多く得票を得なければ、理想はむしろ笑われるだけです。そして残念ながら「教会」もこの地上で「組織」である以上、あの選挙のように、この世の多くの人の理解を得て、組織としての「教会」を安泰させることはどうしたって必要でしょう。「組織」は、良い悪いを超えて組織としてスタートした以上、この世にあって継続することが目的のひとつになるからです。どんなに素晴らしい目標があったとしても、継続できなければ組織としては失敗だし、意味をなさなくなる。だからどうしても、組織を維持するための方策が第1にならざるを得ないのです。そして思いっきり簡単に言ってしまえば、組織を維持するとは組織の財政を確立することです。むしろそれだけです。
ではそういう現実を抱えた現実の教会は、何を宣べ伝え、どこへ向かえば良いのでしょうか。一般論では雲をつかむような話しなので、個別具体的に、四谷新生教会はどこへ向かえば良いのか。それを考えるためにひとつの視点を定めてみました。それは「四谷新生教会100周年を、誰が祝うのか」です。30年後です。どのようなヴィジョンが与えられるでしょうか。神さまは、あの教会のスタートの時から変わらずにわたしたちにヴィジョンを与え続けておられる。この教会の30年後をどのように見るのか。どのように見据えるのか。そしてそのために今何をするのか、何が出来るのか。神さまが「前もって…決めておいた仕事に当たらせるために」わたしたちは今、ここにいるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。教会もまたこの世の組織であることを免れません。様々な制約や限界を抱えています。ですからこそ、主よ、あなたがいつもわたしたちを導いてください。神さまのヴィジョンを与えられることによって、わたしたちを力づけてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。