サムエル上16:14−23/使徒16:16−24/マルコ5:1−20/詩編32:1−7
「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
(使徒16:17)
わたしたちは今日、「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧」を記念した礼拝を捧げています。これらが日付順にいえば沖縄の日が23日、教団創立が24日、弾圧記念日が26日ということになります。けれども、出来事が起こった年代順に並べ直して、もう一度これらが何の日だったかを簡単に見ておきたいのです。
1941年6月24日は日本基督教団が創立した日です。事柄に則して言うと、教団の創立総会が開かれた日です。諸教会はかねてよりこの日本における福音主義教会各派がそれぞれの教派を越えて合同しようと願って始まったのが、教団の創立でした。このことは教団教憲の前文にも出て参りますし、今朗読した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」にも出て参ります。「教憲前文」には、それが「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」と表現されています。さらに、「教憲」のあと「教規」があるのですが、その間に「生活綱領」というもがあり、その綱領の後に「日本基督教団成立の沿革」というものがあります。ここには「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し、1940(昭和15)年10月17日東京に開かれた全国信徒大会は、教会合同を宣言するに至った。」と記しています。ということは1941年の創立総会前に教会合同が宣言されたわけですが、「合同宣言」がなされた全国信徒大会の正式名称は「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」でした。「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し」「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」で宣言されて始まったのが日本基督教団だということです。これは決して忘れてはならないことでしょう。この出来事において何を忘れずに記憶すべきかは、次の日付を考える時に明白になります。
教団創立の翌1942年6月26日未明、教団第6部・第9部所属のホーリネス系の教職96名が治安維持法違反で特高警察により検挙され、後さらに20名が追検挙されます。行政当局はすぐさま201教会63伝道所に解散命令を発します。司法当局は検挙された教師を特に組織の中心人物ほど罪を重くする判決を下します。教団は解散を命ぜられた教会主管者、廃止された伝道所代表者に自発的辞任を勧告し、その他の両部教師に謹慎を命じました。この一連の出来事は政治的に仕組まれたものでした。ですから、検挙された個々の教師がどのような言動をとっていたのかは問題にされませんでした。実際に検挙された人たちも、検挙を免れた人たちも、なぜ検挙されたのかはわからなかったほどでした。ところが、日本基督教団はこの事態に対して、当局の術策に見事にはまったのです。日本基督教団の教会関係者には、この検挙が当然のものと写ったり、累が及ぶことを何よりも恐れて、一層当局の望む方向に、つまりますます天皇に忠誠を励むようにと総務局長から各教区長へ文書が送られます。さらに、第6部・9部の教職・信徒に対してその信仰を「錬成」し直し、教会や伝道所を「更生」させようと努力したのでした。むしろこの教団のとった行為こそ、特高警察や当局が行った事柄よりも厳しい「弾圧」そのものだったのかもしれません。なぜなら、こうすることによってホーリネスの教職・信徒の信仰のアイデンティティーを、日本基督教団自らが剥奪したわけですから。
日本基督教団の始まりが「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」であること、「宗教団体法の実施」に際したことだったというのは決して偶然ではなかったのだということが浮かび上がります。日本基督教団はその成立時に、国家に対して、いやもっと正確にいうならばキリスト教の教える唯一の神ではないもの、人間をこそ神とする日本・天皇教の中に組み入れられることを良しとし、積極的に求め、自己の安寧を諮ったと言わざるを得ません。それはさらに次の日付にもつながってゆきます。
1945年6月23日。沖縄で日本軍による組織的抵抗戦が終了した日とされている日です。沖縄県では県条例によってこの日を「慰霊の日」と定めました。島は23日早朝から祈り一色に染められると言います。けれども、本当は沖縄戦で殺された市民の多くが、実はこの日以後に受難しているのだという事実は案外知られていません。統計によればいわゆる「沖縄戦」によって亡くなった市民の80%もの人が、6月23日以後に亡くなっていると言われています。結局「終結宣言」は「終わりの日」ではなかった。戦闘行為そのものは9月7日まで続けられたと言われています。これは牛島中将が自決に際し「爾後各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ。」と指令していたことに関係があります。
その後の沖縄は、天皇の存置と引き換えに米国に売り渡され、1972年5月15日に施政権が返還されました。日本基督教団は沖縄への施政権が米国に渡ったことから、朝鮮教区、台湾教区、満州布教区、華北布教区、華中布教区・北海教区樺太と同様に九州教区沖縄を特段の意思決定もせぬままに無いものとしたのです。ここにも日本基督教団の成立の背景が色濃く現れています。
これが、わたしたちの教団の成立と、それにまつわる創立期の歴史的出来事です。これはいわばわたしたちの教団に於ける負の歴史事実でしょう。しかし、だからこそわたしたちはこれを無いことにしたり、忘れたりしてはいけないのです。もしわたしたちがこれを忘れ、語り継ぐことを止めるなら、占いの霊に取り憑かれている女奴隷がわたしたちの代わりに叫び出すかも知れません。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」(使徒16:17)。もちろんこの歴史的罪を乗り越えることはわたしたちには出来ないかも知れません。けれども、この罪を教会の歴史にしっかりと刻みつけておくことは出来るはずです。世の栄光を受けようとするならば隠し通しておきたい傷です。でも、わたしたちに世の栄光が必要でしょうか。むしろそれと訣別し、神の栄光を求め、神の熱意に突き動かされる教会であろうと決意をする。その決意を新たにする。それが今日の主日に「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧記念礼拝」を捧げる意味なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの教会が犯してきた罪を憶え、神さまの前に悔い改めます。世の栄光の誘惑は今も常にあり続け、わたしたちは大いに惑わされます。しかし神さま、あなたのみを見あげるべきことを、こうして思い起こさせて下さい。わたしたちの決意と誓いとを新たにするこの日を感謝し、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。