申命記6:4−9/ローマ8:12−17/マルコ1:9−11/詩編97:1−12
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
今日を特別に「三位一体主日」と呼びます。ペンテコステが過ぎた次の日曜日、暦で言えば「聖霊降臨節第2主日」を特別にこう呼びます。父なる神、子である主イエスキリスト、そして約束された助け主である聖霊、ひとつの神の三つの位格が揃った最初の主日であり、暦で言えば「主の半年」を送り「教会の半年」に入る最初の主日を特別に「三位一体主日」と呼ぶわけです。
わたしはこの呼び方が好きです。聖霊が約束の通りわたしたちに降って、主イエスただおひとりが担ってきた救いの業を、聖霊と共にわたしたちに委ねてくださった。その事実を自覚する者として、聖霊降臨の次の主の日を特別に「三位一体主日」と呼ぶ。そう呼ぶことには、わたしたちの意志が、自覚が必要です。しかしその意志や自覚は、それが間違いなくできる、という意志でも自覚でもなく、このようなわたしにも係わらず、業を委ねてくださったことへの恐れと感謝の自覚であり、それゆえにどのように歩むべきかをしっかりと認識する意思の表れなのでしょう。そのわたしたちを生かし、支えているのが、例えば今日お読みいただいたパウロのことばです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(ローマ8:15)。
ここで言われていることは、わたしたちは間違いなく「神の子」なのだという事実です。しかもそれは、わたしたちの行いによってではなく、わたしたちの努力によってでもなく、あるいはわたしたちの能力によってでもなく、ただ、「霊を受けた」からなのだというのです。つまりパウロは明確に、神の霊がわたしたちを「神の子」にしたのだと語っているのです。
別の言い方をするなら、まず最初にわたしたちが「神の子」とされている。わたしたちの信仰とか、招きへの応答とか、それを受けるに相応しい行いだとか信仰だとかが吟味されるより先に、先ずわたしたちが最初に「神の子」とされているのだという宣言です。
ということはどういうことでしょうか。それは第一に、わたしたちの生き様には何ら関係のないところで、言い換えればわたしの主体性ではなく神のご意志によってわたしたちは神の子にされたという現実を意味しています。まさに、「このようなわたしにも係わらず」ということが明らかなのです。
しかしまた同時に、わたしたちはいたずらに自分を卑下してはならないということでもあります。主体が神にあるのであれば、わたしたちは神に捉えられた者として、主体である神のご意志をこの身の上に実現するためにこそ生きる。その点に於いては謙遜の入り込む余地はありません。「にもかかわらず」聖霊を与えてくださった神のご意志の前に、「わたしは罪人です」という謙遜、その大半は見かけだけの謙遜なのですが、それは意味を持ちません。せいぜい神さまから「いや、そんなことは最初からわかりきっておる」と言われるだけです。
モーセが召された時のことを思い起こします。神が彼を召し出すわけですが、モーセはそれを何とかやり過ごそうとします。そこでモーセは次々と神さまに条件を出すのですが、そのすべての条件がクリアされてしまう。もうあとが無くなったモーセが徳俵にかかとを乗せた状態で、それでも神の召しを振り切ろうと語っている言葉が、出エジプト記4章にあります。「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」」(出エジプト記4:10-12)。神はモーセを叱りました。「一体、誰が」と。まるで「おまえがどういう人間であるかは、神であるわたしが知っている。もうとっくに知っているのだ。」と神ご自身が語っているようです。そうやって神さまにすべて知られていたモーセが用いられてイスラエルを率いて今日お読みした申命記6章にあるような信仰と生活とを実践していったのです。鼻持ちならない自慢話ではなく、すべて知られている者が神に全てを委ねきった信頼の物語を語り継いでいるのです。
それは一人モーセだけが特別に神から知られていた、彼はやはり特別な存在だったという意味ではありません。神の霊を受ける者、神の霊を受けた者は、神によって知られているのです。わたしが神を知る以上に、神がわたしを、わたしの全てを知っておられるのでしょう。わたしたちは確かに罪人です。今なお罪の中にあり、罪と共にあります。それは動かしようのない事実です。しかし神は、何故なのかはわからないけれども、そんなわたしを選び、約束の聖霊を与え、このわたしを「神の子」としてくださったのです。
三位一体主日のこの日、謙遜して「罪人」だと連発する前に、神が選ばれたその事実を心から受け入れ、神のその御業を賛美し、わたしの上に起こった出来事を信頼の物語として語り継ぐ者でありたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちはあなたに選ばれて今ここで神さまの御前に立っています。選ばれた理由をわたしたちは知りません。選びに相応しい歩みをしてきたわけではないからです。でも、あなたが選んで下さったその事実を受け入れます。驚くべき救いのご計画が、わたしのこの生身の体を通して伝えられる、その器とされていることをあなたにあって喜ぶことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。