初めて「東京教区総会」に出席した。
3年ぶりに対面で、しかも赤羽会館という初めての場所らしい。教会政治の場にほとんど興味は無いのだけど、初めてでもあり、しかも赤羽は支区内なのだし、とりあえず顔だけ出してみるかという軽い気持ちだったが、直前になって「教会記録審査委員」に指名されてしまい、出席せざるを得ない状況に。
記録審査は総会会場とは別の三階会議室で、会期中ほぼそこに缶詰状態なので、総会の様子は全くわからず仕舞い。選挙の時だけ機械的に呼び戻される仕組み。
で、何が何だかわからないままに投票し、次にはその結果を聞いて次の投票をする。そして議長が退任し副議長が議長に、書記が副議長にという順送り人事になったことと、手もとに教団総会議員選挙結果のプリントが渡され、最下位当選者と次点者第一位との票差が教職で60票、信徒で80票あるという現実を知らされた。つまり選挙前から誰が当選するか織り込み済みということ。誰の名前を書けば良いか予めそっち側の議員には指示が行き渡っているという、教団総会ではよく知られた手法がこうして温存されていた訳で、教会政治の場に民主主義は無いという事実が明らかになるためだけの「選挙」という通過儀礼だった。
退任する議長が「議場には教職と信徒が半々いる。宣教の担い手が信徒であるということを改めて憶えたい(チラ聞きしたわたしの記憶に基づく)」と挨拶した。「もっと信徒が…」というコトバはあちこちの教会で或いは教会会議で聞き慣れている。その度にそのコトバに「何だかなぁ」という思いを感じてきた。今回どうして「何だかなぁ」なのか自分の心理が分かった。「信徒中心に」との発言がほぼ全部「教職」の発言だからだ。
あらゆることを独占している側の者が「信徒こそ中心です」と言うのは欺瞞。だったら先んじて権威も権能も手放せば良い。拳を固めて言っては逆だ。その手を開いて言ってこそだと思うが…。