ヨシュア1:1−9/使徒2:1−11/マルコ3:20−30/詩編112:1−9
「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 (使徒2:11)
復活のイエスは40日の間弟子たちと共にいて、懇ろに教えてくださり、励まし、勇気づけてくださった日々の終わりに、弟子たちを祝福しながら天に挙げられたことをルカ福音書が告げています(24:50)。イエスが天に挙げられることを見届けた弟子たちは、その姿を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰ったのでした。それはイエスの昇天の命令、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(24:49)ということばに従ったものでした。
そうやって都エルサレムにとどまっていた弟子たちの消息が、ルカ福音書の続編である使徒言行録に記されています。お読みいただいた2章1節には「一同が一つになって集まっている」と書かれています。何のために集まっていたかは1章13節以下を見ないとわかりません。集まったのは祈るためでした。120人ほどの人たちが心を合わせ、一つになっていたのです。
その場所で驚くべきことが起こったのです。けれどもそれはイエスによってすでに伝えられていたことでした。神が約束されたものだったのです。ですが、それ自体はとても不思議でした。使徒言行録はその様子を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(2:3)と記しています。恐らく写実的に述べたのではないでしょう。それよりも、この不思議なシンボルによって伝えるべき意味があったのだと思います。
それはその驚くべき出来事のすぐ後に引き起こされました。120人ばかりが集まっていたわけですが、その一人ひとりに「約束されたもの」が与えられた瞬間、彼らは「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2:4)のです。
聖霊の賜物には、たくさんの顔があります。しかしとりわけ使徒言行録が示す聖霊降臨の出来事は、そのたくさんある賜物の中でも「語る」ということに焦点が合わされていると思うのです。「炎のような舌」(3)は文字通り「舌」が与えられたというのですから。しかも単なる「舌」ではなくて燃えているのです。炎のような激しさと強さが伴っていた。だから彼らは激しく迫られて様々なことばで語り出したのですが、その語る話しの中身は「神の偉大な業」(2:11)でした。激しく燃える炎のような霊の賜物が与えられたのは、「神の偉大な業」を語り継ぐためだったのです。
しかし、わたしたちが語ることば、わたしたちが晒されている洪水のようなことばの中には、人々を傷つけ、場合によってはいのちを奪うものさえあります。同じ“ことば”でありながら、その違いはいったい何だろう、そのあまりの違いは一体何だろうと思います。でも、わたしをもっと愕然とさせるものは、そのことばをわたしも使ってしまう事実です。わたしのことばだけが清くて正しくて、というわけにはいかない事実です。神の業を語り継ぐ口と、人の心やいのちを傷つける言葉を吐く口が、わたしという一つの人格の中に同居している、いや、わたしの中で一つになっているのです。その事実がわたしを愕然とさせるのです。
「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」(ヨシュア1:8)。わたしたちは、もはや自分の力で自分の口を律することは出来ないのかもしれません。でも、神がそんなわたしと共にいてくださるなら、神がそんなわたしを見放さず、見捨てないとしたら、その時初めて、わたしはわたしの身の上に起こった驚くべき出来事として「神の偉大な業」(使徒2:11)を語り継ぐことが出来るかもしれません。昔々誰かの上に引き起こされた業ではなく、今、このわたしの上に引き起こされた驚くべきわざとして。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが与えてくださった激しい炎のように燃える舌を、わたしはあなたの偉大な業を語るためにではなく、人を傷つけ抹殺するために使っています。同じ舌が、一方で人を傷つけ、一方で神のわざを語っているのです。自分が平然とそれが出来ていることを知り、愕然とします。神さま、あなたからいただいた賜物を、あなたの思いどおりに、あなたの願いどおりに用いることが出来るよう、わたしを導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。