イザヤ50:4−7/フィリピ2:5−11/マルコ14:32−42/詩編24:1−10
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。」
(マルコ14:41)
お読みいただいた今日の箇所は、弟子たちが皆眠りこけている間に、神とイエスとの間に交わされる真剣極まりないやりとりが記されています。今日の箇所を再録しているルカ福音書は「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(22:44)とその苦しみの様子を特別な言葉で記しています。でも、意地悪く言えばいったい誰がイエスの祈りの言葉を書き留め、血の滴りのように汗を流し苦しまれるイエスを見たのだろう、皆眠っていたのに、なんて思ったりします。しかし少なくともこの物語を取り上げている3つの福音書はどれも、そんなことに関心を寄せません。イエスの苦しみの意味にさえ某かの意味づけを与えるようなこともしません。むしろイエスの祈りが真剣であればあるだけ、対比されている弟子たちの間抜けさが強調され、事柄がユーモラスな場面であればあるだけイエスの側の深刻さを浮き彫りにする、そんな文学的な手法が用いられています。しかしそういう手法が今日の箇所の主たる意味ではないでしょう。
マルコ福音書には「弟子の無理解」というテーマがあると先週おはなししました。二人の弟子が他を抜け駆けしてイエスに「1番弟子2番弟子にしてください」と直訴し、他の10人の弟子たちがその抜け駆けに腹を立てるという物語です。12弟子と呼ばれる者全員がこの時イエスがなさろうとしていることを理解していなかった、あるいは誤解していたということが典型的に現れた物語です。その証拠が「「できます」と言う」(マルコ10:39)その言葉に表れていたわけです。
今日はその時の二人に加えて、人々から一番弟子と思われていたペトロの3人だけが、イエスの近くに進み出ることを許されます。そして今日の箇所でさらに弟子としては全くイエスのことを理解していないという現実に出くわすことになります。その意図で書かれている福音書ですからそうなることはいわば当たり前ですが、しかしその事実をこうやって突きつけられるときに、読者のひとりとして私はこの弟子たちを笑えないのだと気づくわけです。つまり、私も無理解なのだ、と。
イエスと弟子たちの対比は「祈る」という言葉と「眠る」という言葉に直接表れます。一方はひたすら祈り(それも血の汗を流しながら)、他方は眠り呆ける。眠ること自体をとがめられても「ひどく眠かったのである」(40)と言う他はない訳です。「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」(同)と言うのですから、イエスが何かとてつもないことに直面しているようだということは気づいているようです。そのイエスを自分たちの首領であるとして従ってきた弟子たちなのに、ボスの非常事態に気づきながら何も出来ない、何もしない、眠りこける以外には。「わずか一時も」(同37)出来ないのです。
それがわたし自身の姿です。信仰が試される場面で、イエスが求めるであろう事の何ひとつも出来ない。ひどく眠かったと言えばその通りかも知れないし、肉体は弱いのかも知れない。
だけど、少なくとも私の救い主と信じて、誓いを立てて従ってきたはずなのに、肝心の信仰が問われるその時に、何も出来ない。そんなこと、数え上げれば切りがないほどたくさんあるのです。少なくともたった一度などではない。むしろ、何一つしてこなかったと言うべきです。いや、この福音書を読み進めれば、「何もしなかった」どころではない。わたしたちは、弟子たちと一緒になって「イエスを見捨てて逃げてしまった」(同50)のです。
そんなわたしたちの眠りこけている姿を目にしたイエスはこう言いました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。」(同41)。「もうこれでいい」とイエスに言われる弟子たち。どれ程居心地が悪い瞬間でしょうか。「いい」ことなんて一つもない。イエスは私を見限って棄てられたのだ、と。イエスはいつも私のそばにいてくださった。悲しみの中にあるときも孤独の時も。だけど私はイエスの苦しみの時に眠り呆け、見捨て、逃げ去った。だからイエスに見限られてもしかたないのかも知れない。神に見捨てられてもしかたないのかも知れない。
全くそうです。その通りです。でもイエスは私をお見捨てにはならなかった。むしろ弱い私が強く逞しくなり、いつの日かイエスに見直してもらえるようになる事よりも、弱く何も出来ない者であることを自覚したままでイエスに従い続けることができるようにと、私の代わりに、暴力にその身を委ねられたのでした。彼は逮捕され、意味のない裁判にかけられ、十字架で見せしめに殺されたのです。その場に私はいませんでした。イエスを見捨てて逃げ、身の安全を図ったのです。にもかかわらず、そんな私のためにイエスはご自分の命を捨てられた。「もうこれでいい」と。
今日、しゅろの葉をここに飾りました。今朝切ってきた葉は未だ瑞々しく、乾燥を防ごうとする本能で徐々にその葉を閉じようとしているところです。しかし間もなくこの葉は干からびて茶色に変色し、やがて見る影もなくなります。それはわたし自身です。だからその事実に深くうなだれ、悔い改める日にこれを燃やし、灰としてそれを心に刻むのです。そんなことで私の罪が赦されることはありません。でも罪をちゃんと見つめて生きることならひょっとして出来るかもしれない。せめて悔いる生き方を通すことでイエスに従ってゆきたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが救ってくださるに足りる何も、わたしは持っていません。行っても来ませんでした。「信じる」と言うものの、その信仰にいのちを賭けてきた訳でもありませんでした。弟子たちと同じく私はおそらくいつでも主を捨て去るに違いありません。しかし主イエスは、そんな私のために暴力で殺されていったのです。神さま、私のために、私の救いのために、あなたが苦しみ続けておられることを、せめて覚え続けることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。