哀歌3:18−33/ローマ5:1−11/マルコ10:32−45/詩編22:25−32
「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」」(マルコ10:37)
「栄光」とか「勝利」という言葉を聞くと、2021年を過ぎてきたからでしょうか、オリンピックを思い起こします。2021年には年度内に2つのオリンピックがあった年でした。尤も1992年までオリンピックは同じ年に冬期も夏期もあったので、私などには今回のことが懐かしくさえ思えましたが、それにしても今回の東京と北京のオリンピックは特別、開催の意義が見えないシロモノでした。何度か「四谷快談」に書いたとおりです。
そもそもわたし自身体育会系ではないので、スポーツで競い合うことに自分自身を投入することはまずありません。プロ野球が好きで、贔屓のチームが勝ったら嬉しいというのは体育会系のことではなく、まぁいってみれば賭け事みたいな関心に過ぎません。自分の体や技術・能力を他者の体や技術・能力と競い合わせるという競技スポーツに自分の身を置くことに関心がないのです。勢い、メダルが取れたか取れなかったかもあまり関心はなくて、むしろ事前の報道ではまるで金メダル確実かと言われた人が予選落ちする、そして選手が青ざめて謝罪する姿を報道する現実に、煽ったのは誰だ、と報道機関への嫌悪感だけが生じてしまったりするのです。
競う以上、優劣がハッキリ現れるわけです。そしてその優劣に一喜一憂する。もちろん達観した選手は、「戦うのは相手ではなく自分自身」と言いますが、相手が他者であれ自分であれ、そのようにして戦ったことが客観的に評価され、それが順位となることがスポーツ競技なのだと思います。だから客観的評価の基準たるべき「ルール」が公正でなければならない。それは競技におけるルールだけでなく、競技を開催するあらゆる事でも公正なルールであるべきです。その点で東京でも北京でも大きな揺らぎがありました。尤もこれも今年に限ったことではないのですが。さらにタチの悪いことに、スポーツ競技はカネになるわけで、ただでさえ不透明さが生じるところでもあります。
今日の二人の弟子は純粋にイエスの弟子のナンバー1と2になりたかったのでしょうか。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(同38)と問うイエスに「「できます」と言う」(同39)のです。「ご主人様に命じられたらたとえ火の中水の中」という意気込みを見せようという意図ならわかります。新入社員に「出来ない」と答える選択肢はない、という厳しいカイシャもあるようです。人事担当者の使命は「いかに社畜を育てるか」にかかっていることの裏返しかも知れません。恐ろしいことですが。でも二人の弟子の場合、ここで「できます」と答えることが理解していないことの証拠になってしまっているのです。
他の弟子を差し置いて抜け駆けでイエスに願い出る辺り既にスポーツマンシップには欠けている二人ですが、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(同41)とあります。抜け駆けに対して腹を立てたのかも知れません。マルコ福音書には「弟子の無理解」というテーマがありますが、この箇所は全ての弟子が理解していなかったということを如実に書いているその典型です。教会という制度を重視するマタイ福音書はさすがに二人の弟子の申し出ではまずいと考えたのか、二人の母が願い出たという物語に変えています(マタイ20:20-21)。そうなると、無理解の範囲だけがどんどん広がっていきます。その「無理解者」の中に私も置かれている。それは間違いないことでしょう。だってイエスが求めているのは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同44)という、価値観の完全な逆転です。そんなこと、簡単に・単純に「できます」などと口にすることは無理です。それは私がこれまで生きてきた全てが否定されることです。いくらイエス様のお言葉でも、それは無理です。
その頑なな私にむかってイエスは「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(同45)と言う。少なくともマルコが知っているイエスはその通りの生き様/死に様だったからです。
イエスは無理難題をわたしたちに突きつけたのでしょうか。わたしはそうは思いません。そうではなく、わたしたちが無理難題だと思ってしまうことを、同じように苦難の中でギリギリのところでその身に引き受けたのがイエスなのだという事実に目を留めるようにと、指し示しているのではないかと思うのです。この二人の弟子も、即座に悔い改めて生き方が変わったわけではないでしょう。でもこのことはずっと引っかかっていたはずです。体の内に棘として刺さったままだったのです。
ヤコブは12使徒の中で最初の殉教者になりました。ヘロデ王のご機嫌取りのために殺された。ヤコブにはイエスの言葉がずっと引っかかっていたのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。私は主の杯を飲むことなどできません。どれだけ熟慮を重ねても「できます」と応えられそうもありません。でもあなたの言葉が引っかかっているのです。そんな破れを抱えたままで神さま、あなたに従っていこうとしている私をゆるしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。