哀歌5:19−22/Ⅱコリント4:1−6/マルコ9:2−10/詩編27:7−14
「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」(哀歌5:21)
私は行ったことがないのですが、エルサレムというのはとても特別な土地のようです。どう見ても地理的な要所とは思えない場所です。でもこれまでの長い歴史をとおして、エルサレムの領有を巡って争いが繰り返されてきています。キリスト教と関わりの深いことだけ拾い上げてみても、例えば紀元前1000年頃にヘブライ王国が誕生し2代目ダビデ王によってエルサレムが首都に制定されました。3台目ソロモン王によってエルサレム神殿が建設され国が絶頂期を迎えます。ところがその死後国は分裂し、僅か一部族だけがユダ王国となりその都がエルサレムでした。
紀元前597年に新バビロニア王国の支配下に入り第一次バビロン捕囚、同586年ユダ王国が完全に滅び、都市も破壊されます。そのバビロニアがペルシャに滅ぼされ、紀元前515年にエルサレム神殿が再建されます。332年にはアレクサンドロス帝国の支配下に入り、前140年頃にユダヤ人のハスモン王朝によって一時自立しますが、すぐローマ帝国の影響を受け、前37年にはヘロデ大王が傀儡政権を樹立します。そしてイエスの時代となり、紀元66年にユダヤ戦争でローマに完敗しエルサレムからユダヤ人が完全に排除されました。
キリスト教の時代に入ると320年頃コンスタンティヌス1世の母ヘレナがエルサレムを巡礼したことで聖地となり、聖墳墓教会が建てられます。しかし638年にはアラブ軍に征服され、イスラム統治下におかれます。
そして十字軍の時代、エルサレムはキリスト教が支配したりアラブに奪回されたりを繰り返すことになります。
近代に入るとヨーロッパに住むユダヤ人のシオニズム運動が高まりを見せ、多くの移住者がエルサレムに住み、第一次大戦でオスマン帝国が敗れるとこの地域は大英帝国・国際連盟によってイギリス委任統治領パレスチナとなります。
第2次大戦後1947年、国連によるパレスチナ分割決議によってエルサレムは国連の永久信託統治とされます。その決議に基づいてイスラエルが独立を宣言し、直後に中東戦争が勃発することになりました。その後も様々な混乱を経て、今なお火種をたくさん抱えることになります。
キリスト教の母体であるユダヤ教にとって、見て来たようにエルサレムはダビデ王によって定められた王国の都でした。ヤハウェご自身がダビデと契約を交わし、ダビデ王家の存続を約束します。「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(サム下7:16)。しかし、紀元前8世紀頃の預言者ミカは、ちょっと大げさに言えば歴史上初めてエルサレムの滅びを預言するのです。「頭たちは賄賂を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」と。それゆえ、お前たちのゆえに/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」(3:12)。神を神とも思わない民の指導者たちによってエルサレムは滅びるのだとミカは言うのです。
神が直接ダビデ王と契約を交わした事柄に対する、これは冒涜だと見做されました。同じように王国の滅びを預言したエレミヤは逮捕されます。「「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。」(エレ19:15−20:2)。地上のいかなる権力者であっても、偉大な都エルサレムを攻め落とせるわけがない、神が千年王国を約束したのだとユダ王国の人々は考えていたのです。「それゆえ/主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも/盾を持って向かって来ることも/都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し/この都に入城することはない、と主は言われる。」(イザヤ37:33−34)。
そのエルサレムが滅んだ。その歴史的事実はユダ王国の人々にとって一体どれ程衝撃的な出来事だったことでしょう。その嘆きが「哀歌」です。「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。」という言葉はだから決して勇ましい自信に満ちた宣言ではない。神が赦してくれていないから今こうして苦しんでいるのだという深い自省の念から発せられる、実に弱々しい罪の告白と哀願の言葉なのです。
今この時代、教会はそんな哀しみの歌の中に立ち続けています。自然災害があり、未知のウィルスの脅威があり、そして相変わらず戦争と混乱があります。神が共におられる、キリストが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と仰ったのに、どうして世界はそして教会は、相変わらず苦しみと嘆きの中にあるのか。それは神のせいなのか、あるいはそれはミカの語る言葉の通り「お前たちのゆえに」なのか。
新しい一巡りに歩みを進めてゆこうとする今、わたしたちはまず、わたし自身をしっかりと振り返りたいのです。そして神が既に発しておられる「声」を、心と耳とを澄まして聞き取るところから始めたいのです。そうすれば、神の声がこの世界に満ち満ちていることをわたしたちは発見するでしょう。昔神が民を導いたときのように、その満ち満ちる声によって日々新たにされて、歩みを進めてゆきたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの声に耳を澄ませることが出来るようにわたしたちを導いてください。その声によってわたしたちを新たにしてください。特別ではない日々を重ね続ける一年としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。