申命記6:5/ガラテヤ5:5−6/マタイ25:1−13/詩編31:8−14
今は、レントである苦しみの受難節の中にあります。イエス様が、私たちの罪の贖いのために、私たちに代わって罪に対する罰を受けてくださり、ご受難そして、十字架の死に至り。イエス様が復活します。私達は赦されました。赦されて「神の国」に入ることについて、今日、与えられた聖書箇所の「神の国」の譬えのお話から、私たちの罪と贖いによる赦しをご一緒に受け止めることが出来たらと思います。 マタイによる福音書では24章36節から25章46節までに、5つのたとえ話がまとまっています。その中の一つの譬えとしての「十人のおとめ」の譬えになります。
「神の国」を表すことに福音書記者そして、イエス様がいかに苦労していたかを見ることができます。 5つの譬えの中で、共観福音書に並行記事がない、「十人の乙女」の譬えと「すべての民を裁く」の二つの譬えは、マタイによる福音書の独自の資料によるものであります。同じ「神の国」へ入る譬えであり、密接な関連があると考えられます。
「十人の乙女」のたとえからお話しして、「すべての民を裁く」の譬えのお話しとの関連を見て、「神の国」について、ご一緒に受け止めることが出来たらと思います。
十人の乙女のお話に入りたいと思います。
① 25章1節天国に入るために「ともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」乙女。天国へ連れって行ってくれるのは、花婿さんで、その花婿さんを照らす灯火の灯りを持っていないと、連れて行ってもらえない。というか、花婿自身は照らす明かりを持って、連れに来るわけですから、むしろ、乙女自身が暗闇のなかで花婿をお迎えするために灯を持って、いなくてはいけないのかもしれません。
②25章2節 十人の乙女たちの、5人の賢い乙女は灯の壷に油を入れて持っていた。10人の乙女達は皆、灯火は持っていたが、ツボに油を入れて、油の用意をしている者と、壺も、油の用意もしていない者が居たこと、油を用意されていない人は、時が立つと、灯火の灯りが消えてしまう人達のことで、油の用意のある人たちは、時が経っても油が切れず、灯りを灯し続けられる人達のことです。
又、油については、エライオン(オリーブ油;食用,燈用)原語からオリーブオイルでもあることから、傷や病にも用いる用意をされていたとも考えられます。
ランパス (たいまつ,灯火,あかり、油ランプも含めて)マタイ5:14 「世の光」との違い フォス 光・・・太陽の光 ここでの灯の明かりは、より身近な物や隣人を照らす灯りと考えられます。
油は信仰と考え、信仰のエネルギーとしての油を蓄える壺であり、壺は信仰を強める比喩と考え、灯は、その信仰の輝き、明かりとして周りの人たち(隣人)を照らす灯りであり、周りの人たちに福音の希望を示す灯りであると思います。
③ 花婿が遅れて来て、真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と!?
花婿が真夜中に来て、迎えに出なさい!!と叫ぶ声がした。10人の乙女が皆、眠りこけていたということです。真夜中では無理のないことです。
イエス様が十字架にかかられて、天に昇られて、いつ再臨があるかわからない状況の中にある教会と考えてよいと思います。その時の教会への警鐘として語られていると思います。
その時というのは、2000年を経た今の教会をも含まれます。それは教会だけではなくキリストを救い主と信じる私たち一人一人でもあります。
今、イエス様が来られ、イエス・キリストだ。迎えに出なさい!!と言われ私たちも、起きて、目を覚まして、明かりをもって出ていきイエス様であることを確かめて、ついて行きたいと思います。イエス様を確かめる灯をともす油を携えていなくては、私たちはイエス様であることを確認できず、ついていくことはできません。・・・・でも、私たちはイエス様の顔を知りません。・・・・???
イエス様が、私たちを知っています。毎週、イエス様を求めて、日曜日に教会へ来ている私たちを、教会へ来れなくても祈りで、イエス様を求めている私達を知っています。
④ 25章9「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」
「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 灯は分けられます。が?灯は芯に油がないと、分けてもらってもすぐに消えてしまいます。信仰の明かりをともすための油は、買えるものでしょうか?
灯火の油、イエス・キリストによる福音の灯りは、その灯りをともすための油は、自らが、聖書や御言葉を教会で礼拝を捧げ、聖霊によって与えられる信仰そのものなので、友人から信仰の燃料である聖霊をもらうことはできません、神様から与えられるものなので、私たちが優し心を持っていても与えることの出来ない油なのです。特に、お祈りをすることが神様の御心へと近づけてくれる信仰であると思います。イエス様のゲッセネマの祈りが示してくれて居ます。
マタ26:39~42「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。・・・」 二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 油を信仰と考えると、油の用意の無い乙女達も、御言葉に聞き、善きおとずれを受け入れ、人々にも語り伝えていましたが、時を経て、世の中の煩い、忙しさなどで、福音を語られる教会への足が遠のき、明かりをともす、もととなる油が底を尽きてしまった人たちです。が、茨で光をふさがれ、石地で栄養分を取れず、風に吹かれて折れてしまったりした(マタイ13:4~7)。5人の乙女達は、天国へ導かれる花婿が来たときに、自身を導き照らす、灯りをともすことができなかったのです。
又、2000年の時を経た教会を顧みるとき、戦争を支持してしまう教会、国家権力に逆らえず国家元首を礼拝してしまう教会は「神の国」への入り口になれないと思います。
ウクライナへ武力侵攻しているロシアの国のかたがたが神様の思いに立ち返り、平安を与えられるように願います。
⑤25章10節 買えないことを知っていた、花婿・・・!!??
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
人から分けて貰えるものでないのだから、買えるものでもないわけです。
ルターの指摘した、イエス様による罪の赦しは買えるものではないこと、免罪符を想起します。(贖宥(しょくゆう)状)
⑥ 25章11~12開門を請うが『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』
5人の乙女たちは、花婿に合うこともできず、花婿と花嫁の婚宴の席に入ることができませんでした。
▲「すべての民を裁く」の譬えの25章40節に、「わたしはお前たちを知らない。」の意味を明かしてくれます。
マタイ25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタ25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
愚かな乙女たちも来て開けてくださいといったが、灯りがなく顔の見えない乙女たちの声を聴いて、「私はお前たちを知らない」と答えられた、再臨のイエス様は、25章45節のそこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
私に声をかけて助けてくれなかったから、あなた方を知らないと、門を開くことをされなかったのである。
・・・顔を知らない花婿(イエス様)ではありましたが、声を聴いて「知らないことが」分かりました。・・・隣人のために祈ることをしていれば、イエス様も声を知っていたと思います。
このたとえは神の国に入ることの信仰の譬えと受け止めることが出来ます。
私達は日ごろから、神の国に入ること、救い、そして、罪の赦しは、信仰によって義とされることであると思っています。ただ信仰によって赦され、救われ、天国へ入ることが出来ると信じています。
この愚かな5人の乙女は、信仰を持っていなかったのでしょうか?
そこで、気づかされたのは、パウロ書簡の信仰義認に関するガラテア書の聖句です。『5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 5:6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』と記されています。
灯を付ける油は、信仰の灯をともす神様への愛であり、隣人への愛の業なのです。先ほど申し上げた、「すべての民を裁く」の譬えの25章35節以下に神の国に入ることの「愛の業」が記されています。
①飢えていたときに食べさせず、②のどが渇いたときに飲ませず、③旅をしていたときに宿を貸さず、④裸のときに着せず、⑤病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった。
5人の乙女たちは、25章の5つの愛の業に通じているのかもしれません。
買うことのできない愛、形だけでない、気持ちだけでない、神を心底から愛する、隣人愛です。神を愛していないものは、自分と同じように隣人を愛することが出来ません。自分を損なってまで、隣人を愛することはできません。 どうしてよいかわからない、動けないとき、神様への「祈り」が愛の業です。
私の仕事を振りかえって見ると、隣人愛よりも仕事を煩雑にしない方向への気持ちが大きいことが見て取れます。昨年11月に養護施設入所の措置の判定会議があり、ケースワーカーの判断として、精神疾患で妄想が残っている方の養護施設での集団生活は、他の利用者からの刺激が病気を悪化をさせてしまうこと。入所が決まると、年金が月6万くらいあるので、生活保護が切れてしまうこと、生活保護が切れて病状悪化して入院になったとき、長期の入院を受けてくれる病院を探すこと、入院までのケース会議が頻回になることなど、ケースワーク業務として煩雑になることで、判定会議にかけることを躊躇していました。
この躊躇は、ご本人に合わず、種類審査で判断してしまうこと。病気の時に尋ねない⑤(病気のとき)に当たります。精神病院で、ご本人にお会いして、妄想が残留して、意向調査もスムーズにいかない状況でしたが、病院の相談員MSW(メディカル・ソーシャルワーカー)からの精神症状は他者に害を与えるものではなく、自分をごまかしている妄想であること、服薬の管理が行えれば、病院でない生活施設での生活が可能な状態であることを、熱く、純粋な気持ちを訴えられ、自分の手前勝手で、クライアント、ご本人が自分であったら、最善を尽くしたであろうと思い。
その方の人生を旅になぞらえれば、養護施設の宿泊施設に宿を貸さない③(旅をしていたとき)に充る事柄と思います。
養護施設へ入れるかどうかを判断する、入所判定会議にかける事までは、ケースワーカーとして、私のできる事の為、所内の担当エリアのグループ会議で反対多数の中、判定会議にかけることに了解いただき、判定会議の資料を作成し、判定会議当日9名の判定中、この方、ひとりが、条件付きの入所判定になりました。委員の精神科のDrの意見も厳しいものがありましたが、病院以外での生活を選択する道を開いてくれました。
私たちは日常生活の人とのかかわりの中や仕事の中で、自分勝手に判断して、隣人を損なっていることに気づかないでいると思います。今日の聖書個所から、改めて日常の隣人とのかかわりが、神様とのかかわりであることに気づかされました。
聖書へ戻ると、油を用意していた5人の乙女は、思慮深く、愛の掟を守って、油壺に油を用意して、教会での礼拝を守り、神を愛し、隣人を自分のように愛している人たちです。
また二千年を超えて、神様の支配の基あって、愛の律法の基にある教会が「神の国」への扉の開かれた入り口であると思います。
「愛の掟」の聖書個所を読んで終わりたいと思います。
マタ22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
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天にいますイエス・キリストの父なる神様、イエス様の再臨を待つことを一緒に学ぶことが出来、感謝します。弱く、もろく、小さい私たちです。
この世の制度の中で生きて、制度に流されず、自分の弱さに負けず、 神様によって生かされている、私たちである事を忘れないように、神様を深く愛し、信じて生きていくことが出来ます様に、又、隣人を自分のように愛することが出来ますように、聖霊の豊かな導きを願い祈ります。
そして、ウクライナへのロシヤによる侵略が収まり平和と慰めがありますように願います。
この感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン