エレミヤ2:1−13/エフェソ6:10−20/マルコ3:20−27/詩編18:2−7
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」(マルコ3:21)
牧師という仕事柄、お悩みの相談相手になることがあります。私はカウンセラーではないしそのプロセスもわかっていないのですが、話し相手程度ならなり得るかも知れませんし、相談する側もその辺は心得ているようです。
寄せられる相談の第一は金銭問題です。尤もこれはお悩みなのかどうか甚だ疑わしいものでもあります。わたしの経験で有り体に言えば、寸借詐欺或いはそれまがいのことが圧倒的に多かった気がします。
金銭以外なら圧倒的に人間関係の悩みです。で、この場合例えば隣に住んでいる人の行状に困っているというような、テレビのワイドショーのような相談なんてひとつもありません。それはもう牧師相手のお悩み相談ではなく、警察に持ち込まれるものでしょう。では牧師相手の人間関係のお悩みは、ほぼ100%親族・家族の問題です。関係が近ければ近いほど、なかなか第三者に持ち込めないのかも知れません。だから牧師に話を聞いてもらおうということかもしれません。
例えば日本での殺人事件、認知件数で言うと1954年の3081件をピークに近年800〜900件程度に収まっているようですが、家庭内を主とする親族間の事件はここ30年ほど400〜500件と変わらないと言います。分母が減るわけですから件数に占める割合は高くなる一方で、全認知件数の5割を超えるというのです。
家族・親族における人間関係の問題は相当の数なのだろうと思います。そして簡単に第三者に持ち込めないことも含めると、一体潜在的にどれ程の家庭に問題がある事でしょうか。推して知るべし、むしろ問題のない家庭はないと言うべきなのかも知れません。
今日の福音書で言えば、イエスの家族がイエスを取り押さえに来ているのです。共観福音書と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカにはそれぞれイエスの論敵が登場します。そしてそれぞれ別の人たちなのです。マタイはファリサイ派の人たち、ルカは群衆の中のある人たちですが、マルコ福音書は「エルサレムから下って来た律法学者たち」(3:22)です。そして今日お読みいただいた箇所を見ると、イエスの家族への言及がこの3章21節にあって、さらに31節から「イエスの母と兄弟たちが来て」と続いています。つまり、イエスの家族・親族がイエスを取り押さえに来たという話しを最中の皮だとすれば、イエスを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(同22)と言って非難する律法学者たちの話しが餡子です。
こういう最中と言うかサンドイッチと言うか、そういう構成をするのがマルコの特長のひとつです。するとつまりマルコはイエスの家族親族を律法学者たちと同列に扱っていることになり、そのどちらもがイエスの論敵でさえある、ということになります。人の悩みのほとんどが人間関係であり、人間関係の悩みのほとんどが家族親族であるということが、なんとマルコの教会でもそうだったということなのかも知れませんね。マルコはそれをイエスの家族に反映しているのでしょうか。
家族からすれば「あの男は気が変になっている」(21)とイエスが人々から思われているということは大問題だったわけです。有り体に言えば「普通ではない」ということでしょう。この場合ほとんど「普通」が問題にされることはありません。「普通」を外れている方が問題だというのが自明のことだからです。ではイエスが外れてしまった「普通」とはナンだったのか。福音書の少し先、35節にこうあります。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」。イエスにとっては「神の御心を行う」ことが行動の規範であってイエスの普通だった。それがイエスの中心だったと言うことも出来るでしょう。一方その家族を代表とするわたしたち自身はそうではない「普通」を持っているしそこから離れられません。それは「自分の意志を遂げる、自分の思いを優先する」、そしてそこから来る「苦闘・苦悩」です。どちらかが間違いなく「気が変になっている」のです。
イエスは自分について多く語りません。むしろ自分をどう判断するかを、彼の周りにいる者に委ねています。少なくともマルコはイエスをそのように描いているのです。周りの人とは群衆であったり宗教指導者であったり弟子たちだったり家族だったりします。とすれば、ここでもイエスは判断をわたしたちに委ねているということです。どんな判断ですか。どちらかが間違いなく「気が変になっている」のだ、おまえはどっちだと思うか、と言うのです。「神の御心を行う」のか「自分の思い」を行うのか。どちらが気が変になっているのか。
これは道徳の話しではありません。イエスの方が正しいに決まっていると言うだけで逃れることは出来ないのです。どちらに進むにしても、それには覚悟が伴います。誰の判断でもない、誰のせいにも出来ないのですから。そこと格闘し苦悩しなければならない。悪は外にあるのではなく、私自身の中にこそあるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。「あの男は気が変になっている」と言われているイエスを家族が取り押さえに来ました。「普通」ではないと判断したのです。私もたくさんの「普通」に取り囲まれて生きています。そしてそんな「普通」を疑うことはしません。しかし主は、本当にそうかと私に問い糺します。神さま、どうか私を、せめてその問いに向き合って生きる者としてください。問われていることを覚えて、自らの道を選択できる者としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。