エレミヤ31:27−34/ヘブライ2:10−18/マルコ1:12−15/詩編91:1−13
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ1:13)
イエスが洗礼を受けるとすぐ、霊がイエスを荒れ野に送り出したとマルコ福音書は語ります。その荒れ野で、有名なサタンの誘惑を受けます。奇跡や、それによるこの世の支配への誘惑です。しかしイエスはその誘惑を悉く聖書の言葉を用いて退けたのです。これこそ信仰者のあるべき姿。そのためには信者は先ず聖書に精通しなければならない。誘惑を退ける物語にはそういう信徒教育的な効果が狙われていることは疑いようがないのです。ところが、マルコ福音書はマタイやルカのそれとは違って、その誘惑自体を取り上げません。もちろん聖書のことばを用いて誘惑を退けた話もない。そうではなく「四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(1:13)という事柄だけを淡々と記しています。それだけではなく、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(同)という言葉が付け加わっています。これもまたマタイやルカにはない言葉です。
わたしたちはイエスが洗礼を受けて直後に誘惑を受けたことを良く知っているので、「荒れ野」というところは「誘惑を受ける場所」であると思っています。つまり「荒れ野」と聞くと今日の箇所を先ず思い浮かべるわけです。しかし、聖書の中に出てくる荒れ野はこの箇所が初めてではありません。
旧約聖書の中には「荒れ野」という言葉が実にたくさん出て来ます。列挙するとそれだけで数時間必要です。代表的なところだけいくつか見ましょう。創世記ではハガルとイシュマエルの物語の中で何度も登場します。神の使いと出会う場所が荒れ野です。或いはヨセフ物語で彼が穴に投げ入れられたのも荒れ野でした。出エジプト記ではエジプト王と最初に折衝するときに「どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」(3:18)と言います。イスラエルが神を礼拝する場所こそ荒れ野なのです。そしてもちろん、神はイスラエルを40年その荒れ野で放浪させられました。イスラエルは40年間試された。文字通り誘惑にあったということでしょう。
おそらく旧約聖書は、荒れ野こそ神と出会う場所であると告げているのです。だからバプテスマのヨハネも荒れ野で人々に教えを説いていたし、イエスもそのヨハネの弟子として荒れ野で神の言葉を語るヨハネを手伝っていたと思われます。そして荒れ野で誘惑にあって、それからヨハネと決別し、つまり荒れ野ではなく町や村にご自身の活動の場所を移動されたのです。神と出会う必要がなくなった。イエス自身が神──先週神に願ってではなくご自身が嵐を鎮められたように──として振る舞うという意味があるのかも知れません。
そう考えると、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という簡潔なマルコの報告にも重要な意味が見て取れます。「野獣と一緒に」という言葉はイザヤ書のこんな言葉を思い起こさせます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」(11:6−9)。この箇所は「平和の王」としてエッサイの株から出るひとつの芽についての預言です。「わたしの聖なる山」とは、神のご支配の場所。終末にわたしたちに与えられる救いが獣と乳飲み子の様子で語られているのです。イエスが誘惑を受けられたその荒れ野で、その時に、終末の救いの完成をわたしたちは垣間見ているのですね。
わたしたちの人生もまた「荒れ野」にたとえられるかも知れません。「神さまは耐えられないような試練は与えないし、逃れの道も備えてくださる」と言って励ましてくださる方が結構いますよね。確かにコリントの信徒への手紙でパウロはそう言っています。でも、現に試練に遭っている人にとってそれは励ましになるでしょうか。「耐えられないような試練は与えない」と言われたら、少しへそが曲がっているわたしなどは「これに耐えられないわたしは神から見放されているのね」と思っちゃうかもです。試練のさなかにある人には逃れの道だって見つかるはずはありません。仮にこういうパウロっぽいことを言うのが許されるとしたら、それらは全部、終わった後の話です。試練を耐えたあとに初めて口に出せるかも知れないというものです。そしてたとえそうであったとしても、「あなたの試練とわたしの試練は違う」。わたしの試練の方が軽いと思う人なんてほぼ絶対にいません。だから励ましになんてならない。
でも、それが「荒れ野だ」というのなら、きっとそこに神さまがおられるのです。わたしたちが想像するような存在のしかたかどうかはわかりません。でもそこが「荒れ野だ」というなら、確かにそこに神さまはおられる。ひょっとしたらわたし以上にそこで苦しんでおられるかも知れない。のたうち回っているかも知れない。
イエスはまさにそういう生涯を送られ、その生涯のまま十字架で殺されます。その生涯、彼の生き様死に様が「荒れ野」でした。だからこそ「荒れ野」は神さまと出会う場所。「荒れ野」はサタンや誘惑が支配している場所ではなく、間違いなく神が支配なさる場所なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの主が荒れ野で試みにあわれたことを覚えます。しかしその荒れ野こそ神さまと出会う場所であり、世の終わりにわたしたちに与えられる救いの約束そのものでもありました。わたしが荒れ野にいると感じるとき、わたしたちの主がまずそこにいて試みを受けておられたのだと思い起こすことが出来ますように。受難節の始まりを覚え、この祈りを復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに捧げます。アーメン。