列王下4:18−37/ヤコブ5:13−16/マルコ2:1−12/詩編147:1−11
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」(マルコ2:5)
イエスが中風の者を癒した物語です。この箇所はマルコ福音書の2章の物語です。つまり、イエスの教えやわざをマルコが「福音だ」と理解して、その源を「福音書」という文学のスタイルで書き表したその僅か2章目で、しかしここまでにイエスはたくさんの癒やしのわざを行っています。福音書が始まったばかりだというのに、そしてガリラヤ伝道が始まったばかり(1章14節から)だというのに、「汚れた霊に取りつかれた男」(1:23)を癒し、「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」(同30)のを癒し、「いろいろな病気にかかっている大勢の人たち」(同34)を癒し、「重い皮膚病を患っている人」(同40)を癒します。このわざを行うことこそが、イエスが遣わされた意味だと言わんばかりです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)との言葉の通りです。
「神の福音を宣べ伝え」(1:14)てまだ僅かばかりの間に、たてつづけに癒やしのわざを行うこの男イエスの名前が瞬く間に広まっていったのでしょう。今日もまたイエスの言葉を聞き、癒してもらうために大勢の人がイエスのもとにやって来ています。「戸口の辺りまですきまもないほどになった」(2:2)と言います。
その場面で、中風の友人を癒してもらおうと「四人の男が中風の人を運んで来た」(同3)のです。しかしイエスのもとには近づけません。そこで屋根に登りそれを剥いでイエスの前に病人を吊り降ろしたというのです。まぁ非常識な行動です。カファルナウムの家の住人にとっては迷惑この上ない状態です。
ところがイエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」(同5)のでした。
ここに、「その人たちの信仰」とわざわざ記されています。ここで言われている「信仰」とは何のことでしょう。
わたしたちは教会で神さまを礼拝し、神さまへの道しるべとなられたイエスをキリストだと信じています。そして神さまから信仰を与えられ、その信仰を例えば礼拝の終わりの方で「使徒信条」という簡潔な言葉によって言い表しています。「使徒信条」は「われ信ず」と始まるので、あの信条で告白されていることをわたしたちは「信じている」と告白していることになります。つまり、わたしたちにとって「信仰」とは「キリスト教が宣べ伝えている中味」を「信じる」ことです。「神を信じる」「イエスを信じる」「キリスト教を信じる」がほとんど同じ意味合いで用いられているわけです。
しかし、今日の箇所でイエスが「その人たち」に見てとった「信仰」は、もっと素朴な神、あるいはイエスへの、全幅の信頼のことだったのではないでしょうか。キリスト教の「教義」や「教え」に対する信仰ではなく、イエス本人に、そしてイエスが指し示す「神」に完全に信頼している。その姿をイエスは見たのです。だからこそ、連れてきた人たちの信仰を認めて「子よ、あなたの罪は赦される」(同5)と言われたのです。
ところが、わたしたちはそれを納得しない。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(同7)という律法学者の声はそのままわたしの声です。人の罪が赦される、それはわたしたちみんなにとって喜びの出来事であり、目撃したのは喜びの瞬間のはずでした。ところがわたしたちはその出来事を喜びをもって受け止める前に、やれ「規則に照らしてどうだ」とか「建て前としてはそうだけどね」となる。わたし自身に起こる出来事以外はまず社会通念とか規則とか常識が先行する。そしてそこに「人」を見ないのです。
イエスはそういうわたしに問います。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(同8−9)。イエスが口だけで罪の赦しを語るだけの者だと思うから「神を冒涜している」と詰ったのです。だから、病気の人が起き上がるなんて考えても見ない。それこそ常識に当てはまらないからです。ところがイエスはそれを目の前で行います。それはもちろん病気の当人にとって大きな出来事でした。でもそれと同時に、頑なな思いでその場に立ち尽くすわたしの、凝り固まった心を解きほぐす大きな奇跡だったのです。
「人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」(同12)。わたしは、心を解き放ってこの出来事を受け入れるようになるでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの救いの奇跡を目の当たりにしても、わたしたちはそこに喜びを見るどころか、出来事そのものを疑い、冒涜だと詰り続けます。わたし自身が神だからです。だからあなたの前にあっても頑なに凝り固まったままです。どうかわたしたちの心を、あなたが解きほぐしてください。そしてあなたの救いのわざを一緒に喜び合う者へと変えられますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。