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2022
13Feb

「蒔かれた種」滝澤 貢牧師

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箴言2:1−9/Ⅰコリント2:6−10/マルコ4:1−9/詩編126:1−6

 「そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。」(マルコ4:9)

 今日の福音書も「たとえ」です。数あるイエスのたとえ話の中で一番有名かも知れません。

 先週お話ししたとおり、「たとえ」で語られるということは疎外感を生みかねないのに、「たとえ」の言葉の元々の意味は「側に置く」という、疎外とは全く真反対のイメージでした。

 幼稚園時代は人生の土台をつくる、根っこを育てる時代だと言われます。文部科学省の「新しい学習指導要領」もテーマが「生きる力─学びの、その先へ」と謳われています。専門的なことは良くわかりませんが、幼稚園では「教える」ことよりも「体験する・感じる」ことを通して、自分で考えてその考えを周りの人たちと分かち合うことが出来るようになる、その練習を何度も何度も繰り返す場所ではないかと思います。

 今から30年ほど前、オウム真理教という新宗教が世間様を騒がせました。信者の若者たちは皆高学歴でエリートコースを進むような人たちでした。彼らは進んでテレビなどのメディアに露出して、他のコメンティターたちと激論を交わし続けました。この時信者の彼らが採った方法が「ディベート」という方法でした。彼らはそれに長けていたのです。ディベートも専門的なことは良くわかりませんが、少なくとも当時彼らのテレビでの発言がディベートだとすれば、見ていて思ったのは「説得力を競い合っている」という感覚でした。

 で、あの頃教育現場でも多数「ディベート」が用いられました。少し前までインターネットのSNS辺りで交わされていることはほとんど「説得力を競い合う」不毛な議論でした。競い合う場ですから相手に議論で打ち勝つ必要がある。「論破」という言葉が画面上にたくさん飛び交っていました。

 そういう技術も不要とは思いませんが、「体験する・感じる」ことを通して、自分で考えてその考えを周りの人たちと分かち合うことが出来るというやり方が目指すのはそれとは別の方向です。自分の答えや考えを他者と競い合って勝ち残らせることに意味があるのではなく、違った見方がある、別の角度からは違って見えるという経験をすることです。違いを前提として認めるところから始める。それはやはり体験を重ねることで獲得してゆく以外にないのです。

 イエスがたとえで多くのことをお話になったのは、たったひとつの答えをみんなに理解させ納得させ、或いは説得力で群衆や律法学者に打ち勝つためではありませんでした。そうではなく、言ってみれば「神さまって恐ろしくふところが広いんだぜ」とか「天国ってみんなにとって生きているのが嬉しくなるような場所のことさ」とか、そういうイメージを伝えようとしていたのではないかと思うのです。そして「お前ならどうする?」「どう思う?」と問うところで話が終わる。それを聞いたわたしたちは、自分の心の中に様々なイメージを思い描き、それぞれが置かれた場所で精一杯人と人との間で生きていこうとしたくなる。イエスの語る言葉にはそういう力があったのではないか。

 「種を蒔く人」のたとえは、むしろ13節からの「種を蒔く人」のたとえの説明の方が有名かも知れません。共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカにはもちろん両方とも載っています。この説明は「種を蒔く人」のたとえというよりは「蒔かれた土地」のたとえと呼ぶべきだなぁと思います。そしてこの説明は、イエスのたとえの解釈のひとつ、数ある答えのうちのひとつなんだろうと思います。

 むしろ「種を蒔く人」のたとえは「種そのもの」に注目しています。圧倒的に無駄な場所に蒔かれている。単純に3/4が無駄になっているわけです。なんでも効率を優先するわたしたちには、どうして無駄な場所に種を蒔くのか、と怒りさえ呼び起こします。でも、良い地と同様に良くない地にも種が蒔かれるということは、神の意志の表れかも知れません。たとえ不毛の土地にだって種は蒔かれなければならないという、強く揺るぎない神の意志が現れているのかも知れないのです。

 たとえの説明の箇所では「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(4:20)が他の場所の人たちよりも推奨される印象がありますが、種を蒔く人のたとえでは、むしろ良い土地に落ちた種も他の3つの場所に落ちた種も優劣はありません。違うのは良い土地に落ちた種は30倍60倍100倍に実ったという現実、事実のみです。当時の農業技術ではせいぜい10倍程度で豊作だったと言います。30倍60倍100倍はつまり、あり得ない収穫です。それが神の国だとイエスは言うのです。

 そしてイエスは言います。「聞く耳のある者は聞きなさい」(9)。わたしたちはこのイエスのたとえから何をイメージし、何を聞きますか。

 祈ります。

 すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが統べ治める世界は、あらゆる人が、生きていること自体を喜び合えるような世界であることを教えられます。それは神さま、あなたが全ての人を受け入れる決意をお持ちだからです。主イエスはその事実をわたしたちにお示しくださいました。主の言葉によって、神さま、あなたの救いの思いを豊かに示してくださいますことを感謝し、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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