関西学院大学神学部の中道基夫教授による公開講演会は、とても刺激的な内容だった。
主題は「日本の教会の限界と可能性──コロナ禍を踏まえて」なのだが、語られたことは現代ニッポンで150年を超える歴史を誇るプロテスタント旧主流派に、減少期・衰退期を迎えている状況のど真ん中でさらにコロナ禍が襲ってきた訳で、本来明らかになるべきことを、コロナ禍を隠れ蓑として作用させているのではないか、では隠れ蓑を剥いで直視したときに何が見えるのか、を語ってくれたように聞こえたのだ。そしてそれはまさにこの2年間で感じさせられ続けてきたモヤモヤを明確に言葉化してもらった感覚だった。
コロナ禍が隠れ蓑!
振り返ればそれはプロテスタント旧主流派においてだけのことではない。むしろこの国のあらゆるところで様々引き起こっていた歪みや破綻が、コロナ禍という未曾有の荒波によってむしろ一気に隠されて、何についても「コロナのせい」に出来るという、立場によっては非常にありがたい宝刀を手にした。それが「コロナ禍」の本質だったのではないか。
その荒波は個人で言えば、今までは正面切って口に出来なかった様々なホンネが、「コロナのせい」によって堂々と口にのぼらせることが出来るようになったということ。平時ならその臆面のなさに辟易するのだが、ことコロナという有事はその感覚を麻痺させ、だからあらゆることがスルーされる。「禍」を利用しようとする側にとってはまことに有難いことこの上ない。
だが、隠れ蓑は一過性に過ぎない。現実が蓑の下で好転するわけではないのだ。だからこの空騒ぎのようなご時世に、たとえ心が浮き足立ったとしても、やはり隠された現実を直視し問題を受け止め某かの足がかりを探し続けることをやめてはならないのだろう。そんな気が起こされる講演会だった。