歴代誌上29:6−19/Ⅰコリント6:12−20/マルコ1:40−45/詩編51:12−21
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」 (マルコ1:41−42)
重い皮膚病を患ったひとがイエスのところにやって来ます。それだけ読めば何のことはない日常の一コマのように見えます。しかしユダヤの掟に従えば、この一見普通のことが全く非常識なことであるとわかります。
例えば民数記5章の始めにこういう箇所があります。「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。イスラエルの人々はそのとおり実行し、彼らを宿営の外へ出した。主がモーセに仰せになったとおりに、イスラエルの人々は行った。」(民数記5:1−4)。この「汚れた者」のリストとその対処方法はレビ記11章から15章にかけて細かく記されています。中でも紙面を多数割いて事細かく記述してあるのが13章の「皮膚病」です。
エジプトを脱出し、天幕で集団生活を送っているイスラエルですから、流行性の皮膚病に対して非常に慎重だったのだろうと思います。しかもわたしたちの経験上も皮膚が抱えるトラブルは実に多様です。軽いものから重篤なものまで、現在の医学的知見を持ってしてもそうなのですから、旧約の時代もイエスの時代も、それは現代以上に恐ろしいことだったのかも知れません。
そして「恐ろしいこと」は即差別的な扱いに繋がります。10年ほど前、新型インフルエンザが世界的に猛威を振るったことがありました。「徹底した水際対策」と叫ばれましたが、しばらくして国内第一号の感染者が見つかりました。ご本人は流行り病をいただいただけだったのだけど、この国で一番力を持っているいわゆる「世間様」はそういう判断はしてくれませんでした。それはもう逃亡中の凶悪犯が時効直前に見つかって逮捕されたかのような大騒ぎでした。
コロナ感染症への心配が世界的に広がっている今でも、レビ記13章の「皮膚病」を「コロナ感染」に読み替えたらそのまま通ずるような気がします。2年前、唯一感染者0を維持していた岩手県。多くの友人がいますが、彼らに「スゴイねぇ」と言うとほとんどのひとが「冗談じゃない」と言い返しました。「間違っても第一号にはなるな」というピリピリした空気が岩手県全体を覆っていたのです。
衛生的な観点から良かれと思って区別したはずのことが、いとも簡単に感染者を犯罪人扱いする空気に変わる。民数記やレビ記の記述を馬鹿げていると言い切ることが出来る現代人なんて、存在するでしょうか。
重い皮膚病を患ったひとがイエスと出会う、イエスのところに出向いてくるということが、どれ程当時の常識を破ったことだったのか。出歩くこと自体が罪である──なんだか今のマンボウ下の東京みたいですね──という空気が充満している社会で、今日の事件は起きました。
それに対してイエスはその社会の常識を打ち破ります。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1:41−42)。イエスの力を持ってしたら、彼にわざわざ触れなくても癒すことが出来たでしょう。福音書にはそういう物語もあります。例えばマルコ以外のマタイ・ルカ、そして少し場面設定を変えてヨハネの福音書に百人隊長の僕を癒す物語があります。この時イエスは百人隊長に「そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」(マタイ8:13)と、触ることなく癒しています。だからイエスなら出来たはずです。
しかしマルコは、「その人に触れ」ることにかなり拘っているのかも知れません。イエスが病の人を癒すときには必ず、手をとって、触れて、癒すのです。つまり病とは、例えば皮膚病とは、皮膚が某かの炎症を起こしているというのが「病」の客観化された事実で、治療を必要としている現実ですが、イエスがその人に見る「病」とは、それゆえに彼女、彼が貶められている肉体的精神的社会的「痛み」そのものだった。そしてその「病」を治すために、イエスは彼女、彼の痛みに触れ、痛みを憐れみ、治療ではなく癒やしを行ったのです。「深く憐れんで」(同4)と訳されている「憐れむ」は、ギリシャ語では「はらわた」という言葉が語源です。斜め上から恵みを下々に垂れるのが「憐れみ」ではなく、自分のはらわたがねじれるように相手の痛みに共感することこそが「憐れみ」なのです。イエスは皮膚病を患った者には皮膚病に患った者のようになって憐れまれたということでしょう。しかも、そうなることが「よろしい」(同41)、つまりイエスご自身の意志だというのです。病人には病人のように、けがれた霊に取り憑かれたものにはけがれた霊に取り憑かれたもののように、そして罪ある者には罪ある者のように。その結果イエスは殺される。しかしそうなることがイエスにとって「よろしい」ことなのだ、と。
わたしの痛みを同じように痛んで憐れんでくださることがイエスの、そして何より神のご意志。そこまでしてわたしを回復させてくださることが、神さまのご意志なのだと、イエスは身をもって示してくださった。そうやってわたしたちの体は以前以上に回復され、神さまの御心を宿す神殿とされているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがわたしの思いに、わたしの痛みに、わたしの罪に共感してくださることを、はらわたがねじれるような激しい痛みを持って共感してくださることを知りました。そうやってわたしの全てを背負ってくださることがあなたの然りなのだ、あなたの「よろしい」なのだと知りました。感謝します。あなたがそこまでわたしのことを心に留めてくださっている、その事実に支えられて、自分の道を歩むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。