「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」」(マルコ1:27)
今日読まれましたマルコ福音書の箇所は、イエスがガリラヤで伝道を始めたその一番最初の場面です。マルコ福音書は淡々とイエスの福音のはじめを記しています。先ず洗礼者ヨハネが現れたこと、イエスはそのヨハネから洗礼を受けたこと、霊による誘惑を受けたこと、そして「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(同15)と伝道をはじめ、4人の漁師を弟子として招いて、5人で安息日に会堂に入った。そこでの出来事です。
カファルナウムはガリラヤ湖畔の町です。イエスの生まれ故郷ナザレからカファルナウムまで40キロちょっと。ガリラヤ湖の水がヨルダン川に注ぎ出すのは南側の湖畔ですが、カファルナウムは北側の湖畔です。いずれにせよ、4人の弟子を招いた場所からはそれほど遠くないところだったと思われます。
そのカファルナウムの会堂に汚れた霊に取り憑かれた男がいて、イエスの発する言葉によって彼が癒されるという出来事が起こったのです。それを目撃した人たちが発した言葉が冒頭お読みした言葉です。「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」」(1:27)。
伝道活動を始めたばかりのイエスのことなどカファルナウムの誰も知らなかったと思います。旅の途中に安息日だったからたまたま立ち寄った客人ぐらいにしか見えていなかった。想像するに、客人に対する礼儀として何か一言お話しくださいという流れになったのかも知れません。四谷新生教会でも礼拝後に新来者が紹介され、「よろしかったら一言」と振る。似たようなことだったのかも知れませんね。そこで話し始めたイエスの言葉は、そこに集まった人々を驚かせます。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(同22)とマルコは説明しています。そのイエスの語る言葉が悪霊に突き刺さった。そして彼は叫びだしたのでした。
カファルナウムの会堂では誰もイエスのことを知らなかったのに、ただ一人悪霊に取り憑かれた彼だけはイエスが誰なのか知っていたというのが面白いところですね。運命的な出会いだったことがわかります。そして彼は癒される。
イエスの周りには驚きや新しさがあふれています。「権威ある新しい教え」に皆が驚いているのです。見ず知らずのひとが語る言葉にみんなが驚いて「新しい」と思った、その「新しさ」とは何でしょうか。
目新しいとか耳新しいとかいう日本語があります。目新しいは「見たことがないような新しさがある。珍しい。」という意味ですし、耳新しいは「初めて聞くことである。初耳である。」という意味です。
しかしカファルナウムの人々はイエスの語る言葉に「権威」を感じたのです。これまでに感じたことのないような権威、これまでに語られたことのないような権威です。言い換えれば、これまでのものとは質が違ったということでしょう。
それゆえに人々は驚きました。「驚くこと」と「信じること」とは単純には結びつきません。そして「驚き」は単純に「称賛」に繋がるわけでもないことをわたしたちは知っています。それどころか逆に驚くことは恥ずかしいこと、知らなかったことがバレると恥ずかしいこととばかりに、驚くことはバカバカしいことにされてしまいます。いつの間にかわたしたちもイエスの教えを知ったつもりになって、したり顔や訳知り顔で、救いを既に手にして余りあるような振る舞いをしてしまう。そんなことがたくさんあります。
あの戦争による空襲で田村町教会も春日町教会も礼拝堂を失い、敗戦という裁断が下ったとき、どれ程のひとが再び礼拝堂を建てて賛美の歌声が満ちる日が来ることを確信していたでしょうか。様々なことが偶然のように繋がって、二つの教会が合同して立ち上がり、この四谷の場所に礼拝堂が建てられることを予見できた人はいたでしょうか。それは事情を良く知っていた当事者にとってみても「驚くべきこと」以外の何ものでも無かったでしょう。人の目に驚くべき事が成し遂げられたのだから神の御名は賛美されて当然です。たくさんの方々の思いが捧げられて実現したことではあったとしても、それを成し遂げられたのは神です。そして「神」は、わたしたち人間には計り知れない方です。
教会の創立を覚え、それを記念するこの礼拝で、わたしたちは、神のわざは人間にとって驚くべきものであることをもう一度確認したいのです。驚くことは恥ずかしいことでもバカバカしいことでもない。むしろ神のわざを驚かないことこそ人間の傲慢なのです。知っているつもりになることはすなわち己を神とすることに他ならないからです。
そうではなく、オドロキと向かい合う感性、違いを受け入れる柔軟性、本気で「違いは豊かさ」と信じ続ける勇気を、神さまから与えられ続けて、71年目へと歩みを進めてゆきたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。四谷新生教会の創立71周年を覚え、様々困難を抱える中にあって今日、あなたのみ前に進み出ることが許され感謝します。あなたのなさることはわたしたちにとって驚き以外の何ものでもありません。しかしわたしたちはあなたの力をまるで自分の能力のようにはき違え、自分を神とするかのような振る舞いを厳かに省みることも出来ません。創立記念のこの時に、わたしたちの罪を懺悔します。そして、あなたが行われる業への驚きといつも向かい合う感性を、自分とは違うという事実を柔らかく受け入れることが出来る心を、そしてあなたがこの世にくださった「違うことは豊かなこと」という別の道を信じ続ける勇気を、あなたによって与えられることを心から願います。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。