イザヤ49:7−13/黙示録21:22−22:5/マタイ2:1−12/詩編72:1−7
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:10)
キリスト教保育を行っている幼稚園やこども園・保育所ではだいたいどこでもクリスマスにはページェントが行われます。各施設によって台本は違って当たり前ですが、それでもストーリーはほぼ一緒です。それだけ、いわゆる「クリスマスのおはなし」というのは定着しているということでしょう。
そのページェントの終盤に3人の博士は登場します。救い主の生まれたことを星の輝きから発見した彼らは長い旅でついにイエスとその母を尋ね当てる。そして大切な宝を捧げ、ページェントを見ている者たちも一緒に大切な捧げものを捧げようと勧められ、フィナーレを迎える。そういう筋書きが一般的です。いつ頃この筋書きが完成したのかハッキリしたことはわかりませんが、おそらく当初から、東方の博士の存在はページェントを演じる者たちだけではなく見ている者たち全てを代表する、象徴的存在として描かれていたのでしょう。
東方の博士たちは「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」(マタイ2:2)と言います。ページェントでは星の輝きを発見した博士たちが、その星に導かれてエルサレムのヘロデ王の下を訪ねたという設定になっています。
わたしは幼稚園で都合22年ほど働いていて、22年間クリスマスにページェントを見て来たわけですが、どうしてもここに引っかかっていました。もし星が導いたとしたら、なぜベツレヘムではなくエルサレムに導いたのか。尤も、新共同訳に従えば、彼らは当方でその星を見たがその星がここに連れてきたとは言っていません。「東方でその方の星を見た」としか書いていないのです。だから、創作されたページェントのストーリーではなく聖書の記述に従うとすれば、「星の輝きを発見した」「調べたら救い主の誕生を告げる星だった」「それは西の国、イスラエルのようだ」「ではイスラエルまで出かけて拝んでこよう」という順序なのでしょう。
ただ、星が導いたにせよ、学者たちが考えたにせよ、どちらにせよ、確かに東方の学者たちはミスリードされたのです。星がそうさせたのか、あるいは彼らの「そうに違いない」という思い込みがそうさせたのかの違いだけです。その思い込みとは何か。「ユダヤ人の王なら宮殿に生まれるにちがいない」という思い込みです。そしてその思い込みが招いた結果は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2:16)という空恐ろしい事態を引き起こします。でも、もしかしてさらに空想を膨らませるならば、そこまで込み込みでページェントを演じる者たちだけではなく見ている者たち全てを代表する、象徴的存在として描かれているのかも知れないのです。
歴史家ヨセフスはヘロデ王が統治の初期から義理の弟や妻や子らを次々と殺し、家庭は晩年に近づくにつれて陰惨を極めていったと伝えます。猜疑心の塊のような王。幼児虐殺が歴史的事実であるかどうかは疑わしいのですが、ヘロデ大王の人となりをよく伝えているのです。そういう大王が統治する当時のエルサレムに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(同2)というニュースが伝えられた。領民たちの間に動揺が広がるのも無理はありません。猜疑心の塊である王の凶暴性が暴走するに違いない。そういう人々にとって王の誕生だとか救い主の誕生など、迷惑な話でしかないでしょう。そして、それもまた見ている者たち全てを代表する、わたしの感情そのものではないですか。
神さまの救いのご計画は、すべての人に開かれているのに、すべての人がそれを喜んで受け入れるわけではありません。それどころか、それは迷惑な話でしかないのです。お伽噺の世界で留まっていてくれれば良いのです。王宮かどこか、現実のわたしたちの暮らしとは切り離されたところで起こってくれれば良いだけの話。
一方、自分流に解釈して救い主をその目で確かめようとした者たち、学者たちは、それが徹底的に誤りであったことを知らされます。けれども、神は誤った者たちを見捨てない。宮殿がその場所ではなかったと知った学者たちは、ヘロデ大王の外交的なウソの微笑みに送り出されますが、その時「東方で見た星が先立って進み」(同9)ます。自己流の解釈で、後にとんでもない事態の引き金を引いてしまった学者たちを、しかし星は見捨てないのです。まるで「あなたの考えを捨てなさい、そして導く神の御心を思いなさい」と誘われているようです。だからでしょう「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(同10)のです。
わたしたちは、振り回される存在に過ぎません。確固たる自分なんて、あるようでいて何の根拠もないのです。それでもそんな程度の自分に固執しなければ、生きて行くことさえ出来ないと思い込んでいるのです。たとえそれに固執して取り返しがつかない事態を引き起こしてみたり、いつもいつも誤った選択しか出来ない、そんなわたしたちの頭上遙か上に、わたしたちを見守り導く星が輝いています。その星に気づく者は少ない。でも気づく者が少ないのであって、星が無いのではありません。だから、その星を見出した者は、自分の誤り──罪──に気づき「別の道を通って」(同12)帰って行くことができるのです。
今、今日も、こうしてそのチャンスをわたしたちはいただいているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。救い主のお誕生がわたしの現実ではなくどこか他所で、お伽噺の世界であるかのように、わたしたちはそれを受け入れず、相変わらず私はブレ続ける「わたし」に固執しています。そのように凝り固まったわたしの頭上に、わたしを導く星があることを気づきません。わたしの頑なな心をゆるしてください。そして頑なな心をあなたが耕してください。今日もチャンスが与えられていることを感謝して、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。