サムエル上2:1−10/ローマ1:1−9/ルカ1:39−56/詩編113:1−9
「ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。」」 (サムエル上2:1)
今日お読みしたサムエル記、そしてルカ福音書には都合3人の女性が登場します。一人はサムエルの母ハンナ。一人はバプテスマのヨハネの母エリサベト、そしてイエスの母マリアです。3人には共通した問題がありました。いずれも子どものことでした。
ハンナとエリサベトはともに、なかなか子どもが与えられない女性でした。当時、女性の価値は「子どもを産むこと」に係っていました。ですから、それが出来ないということは存在の全てが否定されることでもあったのです。命が無意味化される。否定される。その嘆きの叫びに、しかし神は答えられました。神自ら行動を起こして、二人の女性の命は救われたのでした。
一方、マリアは望まれない妊娠によって苦難を抱えた人でした。これは命が否定されることより直接的に、命の危機に通ずることでした。ユダヤでは婚約は結婚と同等の法的な保護が与えられていました。だから、たとえ結婚前、婚約中であっても、パートナー以外の関係で妊娠したとなると、それは石で撃ち殺されても仕方のない事件だったのです。本人が同意した場合でも、同意しない場合、例えば暴力的な妊娠であったとしても、結果は同じでした。そういうとんでもない事態がマリアの身に突然降りかかってきたのです。
当然彼女はそのことを驚き、訝ります。事実を告げる天使に彼女は「どうしてそんなことが」と反論するのです。しかし、ガブリエルはエリサベトを引き合いに出して、それと同じことがあなたの身に起ったのだ、と諭すのです。恥を受けていた女性に、神が直接はたらきかけて、名誉を回復してくださった。直接命が危険に晒されるかも知れないマリアの、この一大事もまた、その神の働きかけなのだ、と。その言葉に彼女はいてもたってもいられなくなり、急いでエリサベトのもとを訪ねます。
そこで彼女が見たことは、エリサベトの大きな変化だったことでしょう。身を晒すことさえ恥じらわざるを得なかったエリサベトが、自分の身の上に起ったことを誇っている。高齢で妊娠するという、おめでたいには違いないけれどもちょっとセンセーショナルな出来事を、彼女は微塵も恥じることなく、むしろ名誉が回復されたことを心から喜んでいる。その喜びが、マリアを力づけたに違いないのです。少なくとも、ルカ福音書はこの場面にヨセフやそれに代わる者を登場させません。マリアはヨセフの愛によって運命を受け入れるべく立ち上がったのではなく、同じ女性として、エリサベトの恥をそそいでくださった神の業を目の当たりにして、自分の身に起ることがこの世ではどのように思われようとも、間違いなく神の業なのだと確信したのでした。「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」(ルカ1:56)という短い報告はそういう意味でしょう。
冒頭お読みしたサムエル記にあるハンナも同じでした。お読みした箇所は子どもが生まれて喜びの歌をうたう場面ですが、事情を語っているのは1章です。子どもが与えられない苦しみを彼女は神殿で神に直接訴えます。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。」(サム上1:11)。「苦しみを御覧ください」とは、何と重い言葉でしょうか。その祈りを祭司エリは「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」(同14)とたしなめます。しかしそれが心からの叫びであることを聞いてエリは「安心して帰りなさい。」(同17)と言葉をかけます。神に届く迫力のある祈りであることを覚ったのでしょう。ここにも短いこんな報告が載っています。「ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」(同18)。ハンナもエリサベトも、神が顧みてくださったからこそ、「彼女の表情はもはや前のようではなかった」。それはバプテスマのヨハネの母エリサベトも、そしてマリアも。「もはや前のようではなかった」。神のわざを我が身の上に見出したのです。
世の中には、重圧が満ちています。ストレスと言ってしまえばなんとなく軽く感じますが、生きることを辛くさせる力であることは間違いありません。ある経済学者は「この国では死ぬ自由しか与えられていないのだ」と表現しました。その通り、重圧に耐えかねた人は年間3万人も、そしてもう10数年以上も、自ら命を断つのです。自分で死んだ──確かに、現象はそうでしょう。しかし、それはまるでマリアの上に石が降り注ぐようなことだったのではないですか。人々の冷たい視線が、世の常識という圧力が、価値観という岩が、その人の上に投げつけられて、その人は死んだのではなかったでしょうか。
この世の圧力の故に、社会が押し付ける価値観の故に、涙し、死ななければならなかった3人の女性たち。しかしその女性たちを神は直接働きかけることによって生かしてくださいました。ハンナの歌は、エリサベトの言葉は、そしてマリアの賛歌は、いのちさえ奪おうとする世の圧力をはね返した女たちの凱旋の歌、世に打ち克った勝利の歌、死を選ばざるを得なかった、あるいは死に向かって重圧を受けている全ての人を解き放つ、力に満ちた歌なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの救い主イエス・キリストをこの世に生まれ出でさせてくださった神さま、あなたの救いのご計画を感謝します。命さえ奪おうとするこの世の圧力をはね返すことが出来るのは、あなたが世の創り主であり、世を愛し抜かれ、わたしを救おうとなさっている揺るぎない事実があるからです。あなたの救いのご計画を信じ、全てをゆだねることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。