イザヤ40:1−11/Ⅱペトロ3:8−14/マルコ1:1−8/詩編85:2−14
「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。」(イザヤ40:1)
先週は預言者エレミヤを取り上げました。王国末期に、まさに国を滅ぼそうとする軍事大国を指して「わたしの僕バビロンの王ネブカドレツァル」との神の言葉を語る苦悩のエレミヤの姿を見ました。
今日の旧約聖書はイザヤ書、それもいわゆる第二イザヤと呼ばれる部分の一番最初の箇所です。これはまたエレミヤとは大分趣の違う預言書です。
第二イザヤの置かれた状況については先日11月28日にお話ししました。戦いに負けた神の言葉なんて誰も聞かないし、嘲られ罵られるだけだった。その嘲りと罵りの中でユダヤ教が完成していったことを見たのでした。
「第二イザヤ」という呼び方は便宜的に付けられているだけで、この預言が誰によるものなのかはわかっていません。つまり無名の預言者の言葉です。本当に無名の人なのか、あるいは敢えて無名にしたのか、その辺りの事情も良くは知られていません。それでもイザヤ書の中で恐らく最も良く知られている言葉はこの第二イザヤにあります。「苦難の僕」を筆頭とする四つの「僕の歌」がそれです。神さまの救いのわざは、力の象徴たる「王=メシヤ」によってではなく、人に忌み嫌われ、捨てられ、見向きもされない一人の僕の苦難を通して実現するという、そう記された歌です。
でも、本当にそこに、そんなところに救いを見出すことが出来るでしょうか。そのように語ることが「民を慰めよ」という神の命令に応えることなのでしょうか。
アドヴェントの初日に読んだように、バビロニアで捕囚の民となっているイスラエルに、解放の日が近づいていました。第二イザヤは卓越した目で、世界の動きを捉え、間もなく解放されることを人々に告げます。第二イザヤがことさらに慰めと励ましを語るのは、同胞イスラエルが極限まで弱っているからです。解放を告げるだけでは慰めや喜びにならないという複雑な事情がありました。
12月1日に、帰還困難区域となっている葛尾村(かつらおむら)で帰還に向けた住民の準備宿泊が始まったとのニュースがありました。来年春に避難指示解除を目指している復興拠点で、夜間滞在が可能になったのは今回が初めてだそうです。葛尾村野行地区復興拠点には30世帯83人が住民登録しているそうですが、初日に申請したのは夫婦一組だったようです。捕囚の民の抱える複雑な事情を、わたしたちは類推しやすいのではないでしょうか。
そういう事情を抱えて塞ぎ込んでいるイスラエルの民に、ヤハウェによる新しい天地創造、新しい出エジプトが始まるのだと第二イザヤは語るのです。「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」(3−5)。
その言葉が人々に簡単に受け入れられるとはならなかったようです。研究者の多くは、「苦難の僕」とは第二イザヤその人を指しているのではないかと言います。人に忌み嫌われ、捨てられ、見向きもされなかったのだ、と。
おそらくそうなのでしょう。でも第二イザヤは自分の上に起こる厳しい現実をも神による救いのわざのしるしなのだと思えた。なぜそう思えたのかはわかりません。しかし間違いなく、彼は神さまからの本当の慰めを体験したのだと思います。第二イザヤが今直面している状態はそのまま、神ご自身がご自身で引き受けられ被られるのだという姿をひょっとしたら見たのかもしれません。それこそが「新しい創造」なのだと語れ、それこそが「喜び」なのだと語れ、と。
わたしたちが今、主を待ち望むということもおそらく同じなのです。そしてそれはわたしたちに究極の選択を迫るものかも知れません。
わたしたちは「苦難の僕」がイエス・キリストを表しているということをほとんど皆さん受け入れています。しかし、同じようにほとんどは、僕一人に苦難のすべてを背負わせて、自分は今手にしているすべてのものをひとつ残らずそのまま保とうとして、力一杯自分の手を握りしめている。第二イザヤの語る「喜び」や「慰め」に耳を貸そうともしない。「新しい創造」も「新しい出エジプト」もいらない。今が永遠に続くことこそ「救い」ではないか、と。
どちらに、わたしたちは「救い」を見出すのでしょうか。救い主のお誕生を、救い主の再臨を、わたしたちは今、本当に待っているのでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。救い主がお生まれになったことをわたしたちは知っています。その方は、わたしたちの欲望のためにこの地上から抹殺されたことも、わたしたちは知っています。その方がやがてわたしたちを正しく裁くために再び来られることも、わたしたちは知っていて、その日を待ち望んでいます。でも、わたしたちは本当にそれを待っているのか、裁きのその日ではなく、今この時が永遠に続くことをこそ願っているのではないか。そのような思いに駆られます。わたしたちの主の降誕と再臨とを、本当に待つ者へと、あなたの愛と力でわたしたちを変えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。