イザヤ51:4−11/Ⅰテサロニケ5:1−11/マルコ13:21−37/詩編82:1−8
「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」(イザヤ51:4)
先週、「神を神とも思わない世に御子がお生まれになる」という話をしました。では逆に「神を神と思う」とはどういうことでしょうか。
わたしたちはキリスト教を信じているわけで、キリスト教が唱える「神」という存在をイエス・キリストを通して信じています。その「神」は全世界の創り主であり、わたしたちを救おうとなさる神です。そして通常わたしたちは、その「神」とは唯一の存在であると考えています。おもしろいことに旧約聖書のヘブライ語原文では「神」は単数ではなくむしろ「神々」と訳されるべき複数形の表現のほうが多いのです。日本語訳されている聖書でも旧約聖書の中で神が自分のことを「我々」と呼ぶ箇所がよく見られますよね。
どうしてそうなのかはいろいろな研究がなされているのでしょうけれども、わたしたちにとってそれはやはり「おもしろいこと」ですし、それで良いとわたしは思います。神を冒涜しているとかふざけているという批判もあるかも知れませんが、面白いことは面白いことだし、わからないことはわからないことなのです。
ただ、今わたしたちは比較的簡単に「一神教」とか「唯一神」とか普遍的存在として理解する「神」ですが、旧約聖書の時代で考えれば、「神」とは「民族固有の存在」でした。だから「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という、神と民族との契約の言葉が聖書にあるのはそういうことです。そして民族同士の争いがあって、片方が負けると、それは人間同士の争いの結果ではなく神と神との闘いの結果だと信じられていて、負けた民族の神さまとその神さまの祭に使うすべてのものは厳格に処分されなければなりませんでした。「滅ぼしつくせ」という命令は、現代風に考えればジェノサイド・エスノサイドをイメージさせ、やってはならないこと・あってはならないことだと考えますが、そうではないのです。負けた神に関わるものを自分たちの中に持ち込ませない。負けた神との縁を絶ち切ることが絶対必要だと考えられていたのです。
そして、ヤハウェの神を祀るイスラエルは、諸外国との争いに徹底的に負けるわけです。国が滅び、主だった人たちはバビロニアで捕囚となった。もはや誰もヤハウェの力を認めません。負けた民が崇拝する神などに、どんな価値があるでしょう。徹底的に絶ち切られ、焼き捨てられ、殺されるだけです。
ところが、人間の歴史は、平家物語ではないが「盛者必衰」なのですね。あれほどの勢力を誇ったバビロンが衰え、ペルシャが台頭してくる。第二イザヤは卓越した世界を見る目でもってその兆しを捉え、この出来事こそ人間の世の移り変わりの背後にある「まことの神」の救済の業であると謳い挙げたのです。イスラエルの民族神であったヤハウェが、ここにおいて、世界を創り、世界の歴史を導く唯一絶対の神となったのでした。
もちろん「負けた民の信じる神」です。そういう思想が世界中普くところで信奉されたわけではありません。イザヤ自身もこう言っています。「わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。」(54:7)。つまり、「負けた民の信じる神なんて価値がない」と嘲られていたのです。捕囚の民など、徹底的に罵られていたのです。そういう厳しい環境の中で、ユダヤ思想は育まれ、ユダヤ教が完成したのですね。
今日から教会のカレンダーは新しい年へと歩みを進めます。アドヴェントは一年の巡りの一番最初に位置づけられているのです。そしてアドヴェントは「救い主のお誕生を待つ」日々です。
わたしたちが待っているその救い主は、世をお救いになる神ご自身です。しかし神は、あるいはその神のご意志に忠実な方は、力を振るって世界のすべての民を御前にひざまずかせるような方ではありません。負けた民の神なのです。徹底的に侮られ、嘲られる存在です。でも、そこにこそ真実があるのです。わたしたちの希望となる「主」は、そういう方としてこの世に来られるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。力を求め、力に頼り、それによってすべてを解決しようとしてしまう、わたしたちの傲慢を打ち砕いてください。あなたが弱さの極みとして救い主を与えてくださったことの意味を、心に刻むことができますように。アドヴェントの日々をそのように過ごすことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。