朝、我が家の犬たちと短い時間散歩するのだが、その道の途中には幾つものお寺がある。ある寺には掲示板があってなかなか面白い言葉が掲げられている(わが教会には2つあるぞ、掲示板!)。どうやら月替わりらしいのだが、今掲げられているのはこんな言葉。「すぐれた人は自分を責めて おとった人は他人を責める」。出典は空海の「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論」らしい。
この掲示板に掲げられる言葉は常々だいたい「うんうん」と頷けるのだが、今回のものは通る度見る度に頭の中に(?)マークが浮いてくる。もともと熱心に本を読む人間ではないし、原典にちゃんと当たるほどの気概もない(そんなことを自慢してどうする!)のだけど、空海は本当にそう語ったのだろうか?
何に引っかかるのか。それは「自分を責める」という箇所。
尊敬する児童精神科医の佐々木正美先生(故人)が「エリクソンとの散歩」という本の中で紹介してくださっているのだが、筑波大学で臨床心理学を研究された我妻先生(故人)が「経済的、物質的に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど他罰(外罰)感情を強く持つ現実がある」「豊かさと他罰性、貧しさと自己罰性が結びつきやすいのは人類の特性だ」とよく聞かされたというのだ。それを読んでいたので、掲示板の言う「優れた人と劣った人」との差として他罰・自己罰を見ることが正しい人間理解なのかどうかに疑問が生じたのが第一点目。
もう一つは「自分を責める」ことが生む現代的病理を「すぐれた人」という言葉で一括して良いのだろうかという疑問だ。現代は、自分を責めることが必ずしも「良い」ことではない、むしろとても危険なことだと思うのだけど。
空海の伝え聞く人物像から考えて、こういう言い方はしていないか、もしかしたら解釈が違うのかなぁなどと勝手に思ってしまっている。それにしてももうしばらく毎朝この看板の前を通り続けるのだけどねぇ。