科学的解明もほとんどできず、故に理由も全くわからない中で、コロナが劇的に減少傾向にある。今月1日に東京都でもほとんどのことが解除になって、魔の2週間を迎える今でこそ「下げ止まり」と呼ばれる若干上昇の数字ではあるが、第5波を思えば信じられないほどの静寂だ。
クリスマスから年末年始に向かうこれからの季節、失ったものを取り戻す勢いで気持ちが高ぶることもやむを得ないが、そこはさすがに2年ほどの経験が生きているのだろう、ここ四谷の繁華街も週末夕暮れには多くの人がお目当ての店を賑わせるけれども21時を過ぎた頃にはあれだけいた人影が薄くなる。みんな早めに切り上げる習慣がスッカリ身についたようだ。
そういう今だから、少し静まってこの2年間を振り返るのも良いかも知れない。
先日、全日本柔道男子強化監督を退任した井上康生さんのインタビュー記事を目にした。彼はこう言う。「新型コロナ禍で人との距離や接し方の精査が求められる世の中になりました。柔道は“相手がいて初めて成り立つ競技”です。今の世の中だからこそ、その意味がより問われますし、逆に言うと今こそ柔道ならではの部分を発信すべき時代だとも思うんです。」。
相手がいて初めて成り立つ対人競技。しかも思いっきり接触する。コロナの世相では最も忌み嫌われたが、それなしに成立しない柔道。人が集まって、笑顔で会話を交わし、一緒の食卓に着くことで初めて成り立つキリスト教の礼拝も、言うなればコロナの世相では最も忌み嫌われた。だが井上との決定的違いは、キリスト教界から「今の世の中だからこそ、その意味がより問われ、今こそ発信すべき」という言葉がなかなか聞かれないこと。
単に復旧・復興ではなく、意味を再確認し、今だからこそ発信することがあるはずだ。イヤむしろ時ごとに発信しなければ。
「お前がやれば」って?。それもそうだ。ちゃんと考えよう。