出エジプト6:2−13/ヘブライ11:17−29/マルコ13:5−13/詩編77:5−16
「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:6-7)
四谷新生幼稚園の園長としての務めのひとつに、先生たちの聖書研究をリードするというものがあります。
幼稚園は、全体としては「キリスト教保育連盟」の年主題や月主題を使っているのですが、それ以外にも園独自の聖書のカリキュラムがあって、春には創世記を学んで子どもたちにも天地創造やノアの箱舟、バベルの塔などのよく知られた物語を語って聞かせています。
四谷に来て幼稚園の先生たちと聖書・創世記に取り組んで行く中で、改めて思ったことは、神が人間に与えられた戒めは、ほとんど唯一と言って良いのではないか、ということです。その唯一の戒めは、創世記2章18節にあります「人が独りでいるのは良くない。」という言葉です。人間は、つくられたその一番最初から「独り」でいることを「良くない」ことだと定められている。人は他者と一緒に生きるように、一番最初から定められているということでしょう。
創世記のこの箇所は、イシュからイシャーがつくられるという物語で、だから結婚式などでも取り上げられ、夫婦とは互いにベターハーフなのだという根拠に使われたりします。でも、「人が独りでいるのは良くない」という戒めは、必ずしも婚姻関係にのみ当てはまる限定的な戒めと読むよりは、人間が社会性を帯びて生きざるを得ないという根源的なありようを神が規定していると読むことができると、わたしはそう思うのです。
その神の御心を、イエスは様々なたとえ話でわたしたちに教えてくれるわけですが、論争の中で律法学者が「一番大事な戒めは何か」と問うたことに対して、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」」(マルコ12:29-31)と答えています。これは1番目と2番目という順序が語られているように見えますが、優劣というか順序づけできない不可分の、全く同じウェイトのある戒めだということでしょう。「神を愛し隣人を愛する」ということはすなわち「人が独りでいるのは良くない」ということを指していると読めます。
つまり、わたしたちは人と人とが一緒に暮らすというとても厄介な状況の中で、しかしそのことに常に支えられながら生涯を送り、次の世代にそれをつなぐことが使命として生まれる前から定められているのです。
モーセは、わたしたち全てが生まれながらに持っているこの使命を、極めて極端なかたちで課せられた、その意味で極めて希有で特異な人だったのだと思います。
自分自身が破れ、痛み、傷ついている。その傷を忘れるためだけに生涯を送っていたのに神さまはそこに現れて彼を召し出すのです。しかも、委ねられた務めは彼の力が到底及ばないような、果てしなく遠い彼方を目指していたのです。
そして彼はその召しを受け入れる。ファラオの王女の子どもであるということを役立てようと企てるのです。ところが、自分の力や背後の力を頼っても、ひとつもうまく事が進みませんでした。考えられるあらゆる手立てをモーセは使ったに違いないのです。でもそれは悉く裏目に出て役にも立たない。神の召命なのに、何も出来ない現実をイヤというほど味わいつくした。そして全てを失って何にもなくなったときに初めて、神が動く。「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(出エジプト6:6-7)。
わたしたちは、神から与えられた「人が独りでいるのは良くない」というただ一つの戒めでさえ、守り通しその通りの歩みを進めることが出来ません。人と人とが一緒に暮らすためには、様々な障壁を見るからです。面倒くさいことばかりだからです。しかしかといってやはり「独りで生きる」ことはできない。誰かに、何かに支えられなければ、生き続けることができない。極めて狭い限界をわたしたちはみんな抱えています。
しかし、能力として、あるいは特技として、そこを渡り歩く人だけではなく、あらゆる事を使いつくしてもはや自分には何も残っていない、そんな極限にある人にこそ、神ご自身が動かれる。「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」。
神さまの救いの約束は、私の能力や神さまを理解する力とは関係なく、神さまご自身が自由に働きかけてくださる、だからこそ「約束」なのでしょう。そして、それを信じることが出来るのは、何という幸いなことだろうと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが私を救う決意をもっておられることを、わたしたちは主の言葉によって知ります。救ってもらう代償となるものを何ひとつわたしは持っていません。しかしあなたは、何も持たないからこそ私をお救いくださるのです。その約束を信じて生きる幸いを、心から感謝し、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。