創世記15:1−18a/ヤコブ2:14−26/マルコ12:18−27/詩編105:1−15
「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6)
今日はアブラハムの物語の一部を読みました。アブラハムが聖書に最初に登場するのは創世記11章で、「テラの系図」の中でです。「テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。」(11:27b)と紹介されます。そして12章になると文字通りアブラハム物語が始まります。それは神さまの命令によって始まったのでした。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」(12:1)。この唐突な神さまの命令にアブラハムは従います。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。」(同4−5)。驚くのは唐突な命令に黙々と従ったことだけでなく、その時の年齢です。「七十五歳であった」と。
尤も、この75歳が今わたしたちが普通に考える「75年生きた人」という意味なのかどうかは本当のところわかりません。というのも、いわゆる神話時代を締めくくるノア、あの箱船でつとに有名な彼は950歳になって死んだと、同じく創世記の9章に書かれてあります。想像もつかない年齢です。ところが、さらにミステリーがあります。そもそも箱船の物語のプロローグにこんな記述があるのです。「主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。」(6:3)。寿命が120年程度と定められた後になって、ノアが950歳まで生きる。アブラハムの父テラの系図によればテラでさえ205年生きているしテラの先祖たちもほとんどが200年から300年ほどの生涯だと記録されているのです。そして、当のアブラハムは175歳まで生きたと。
だから175歳まで生きたとか950歳まで生きたというのが175年生きた人とか950年生きた人という意味なのかどうか疑わしいとわたしは思います。そうではなく、何か意図があって年齢を創作しているのではないでしょうか。それが何なのか、残念ながら私にはわかりません。
しかし確かなことは、アブラハムが歴史に登場した時既に彼は75歳だった。そこから未知の旅が始まった。そして妻サラの側女によってイシュマエルという男の子を得たときが86歳だったこと。99歳になったとき、神の人が現れて来年子どもが生まれると告げたこと。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」(17:17)とアブラハムは思ったということです。
今日お読みいただいた12章はイシュマエルが生まれる前の話ですから、彼らがカナンに移り住んで10年ほどの時、アブラハム85歳頃のことでしょう。すでに神との約束を信じて10年も経ている訳です。
アブラハムは神が祝福を授けようとするのを拒み、「子どもがいないのだから、祝福は僕のエリエゼルに」と言います。神はアブラハムのその思いを退けるのです。さらに時間が経って漸く傍系ではあっても男の子が生まれたが、その時も神はイシュマエルではなく直系の子孫、まだ見ぬイサクがアブラハムの後を継ぐのだと言って聞かない。今日の箇所より13−4年経なければそれが実現しないのにです。
カルディアのウルを旅立って25年、アブラハムには直系の子がいない他はとても順調に生涯を送ってきました。順調であれば良いのだとすれば、もうこのまま生涯が終わるまで穏やかに過ごせれば良かったはずです。しかし神との契約は、穏やかな生涯をつつがなく過ごすことではなかった。そうでなく、神との約束の実現を待ち望む、言い換えれば「実現しない、していないことをなお信じる」生涯を生きる、生き通すということでした。
今日は「聖徒の日・永眠者記念礼拝」です。ここに記憶されているわたしたちの信仰の先達はみんなアブラハムのような生涯を生きたのです。一人ひとり波瀾万丈の物語があったことがその証拠でしょう。それがどんなに難しいことなのかをこの方たちが証ししています。しかし同時に、それがどんなに恵み豊かなことであるのかもまた証言しているのです。
わたしたちは950年も生きられません。人生100歳時代かも知れないが、短いならばなおさらわたしたちは自分が生きている内に結果をこの目で見、この手で掴みたいという欲求に焦らされているのです。人と人とが共に生きるには恐ろしく手間と時間がかかることなのに、安直に事柄を進めようともがき、左手にナイフを忍ばせて右手で握手をするようなことまで平気で行う。そしてそれを「スピード感」などと自画自賛して憚らない。あまりにもそういうことこそが普通だと慣らされてきてしまいました。
信仰の先達を覚え、その生涯を思い、まことの神を礼拝するわたしたちに、神さまは今一度「信仰とは何か、人の齢とは何か」を思い起こさせるチャンスをくださっているのかも知れません。「主はとこしえに契約を御心に留められる」(詩編105:8)。ではわたしたちは何をわが心に留めるでしょう。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。信仰とは何か、人の齢とは何か、アブラハムの物語に示されたあなたの御心を思います。わたしたちの、それなりに労苦多い、しかしその割に短い生涯も、あなたによって守られ導かれていることを、信仰の先達たち、既にあなたの下に召されている方々を覚えることによって今日再び知ることになりました。感謝いたします。どうぞあなたに従おうとする一人一人の今朝の誓いをあなたが赦し祝福で満たしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。