創世記4:1−10/Ⅰヨハネ3:9−18/マルコ7:14−23/詩編51:3−11
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」(創世記4:6)
園庭にたくさんのオナモミが育っています。もちろん故意に植えたものではありません。おそらく子どもたちの服にくっついてきたものがそこら辺に落ちたのが始まりではないかと思います。イエスのたとえ話が思い起こされます。たまたま良い地に落ちた種が30倍60倍100倍に実る。この話はわたしの頭の中ではほとんどいつも「麦」だったり「米」だったりを思い起こさせていました。つまり、自分にとって都合の良い植物です。だけど、オナモミだって条件は同じですよね。だから幼稚園の庭のオナモミは(オナモミこそ?)「神の国」をわたしたちに思い起こさせてくれる貴重な植物。「雑草」などではない。それにしても勢いが良すぎますが。
このオナモミについて静岡大学農学部教授の稲垣栄洋(いながき ひでひろ)さんがいろいろなことを教えてくださいます(「生き物が大人になるまで」大和書房2020年)。それによると、オナモミは2種類の種を作るそうで、長い種はすぐに芽を出し、短い種はゆっくり発芽するのだそうです。どちらの種が優れているのか、答えは「わからない」だそうです。どちらが良いのかは状況による訳です。だから「答えがわからないからこそ、オナモミは、2つの種子を用意しているのです。」。バラバラであることにこそ意味があるというわけですね。例えばたんぽぽの葉っぱも、ギザギザが多いのや少ないのがあるそうです。どうしてなのかハッキリしたことはわからないのだとか。一方、タンポポの花の色に個性はありません。みんな同じ黄色です。昆虫は黄色い花に集まりやすいからです。つまり、タンポポの花の色は黄色が正解。正解のあるものはバラツキがない。逆にバラバラであるということは「何が正しいのか、何が優れているのか、わからない」からなのだ、と。
人間のすがたかたちについても同じです。人間を構成する部品については個性はなく皆統一しているけれど、容姿はバラバラ。生物は長い時間をかけて進化を遂げてきたわけで、その結果手にしたのがバラバラであること。人間もそうなのです。
ところが人間の脳は性質上、バラバラを許せない。そのためバラバラなものに何か秩序づけをする。比べやすいように一列に並べたり、並べるについては大きい順とか小さい順とか、大小の順位を付けます。比べるためにモノサシをつくります。大きさを比べるために平均というモノサシを発明したり、更には偏りを数値化するために偏差値というモノサシを編み出したりしました。バラバラのままが進化の過程でわたしたちが手にした答えだったはずなのに、バラバラであることを不快に感じる。アダムが食べたりんごはそういう毒をもっていたのですね。そうやってなんでも序列化する。相対化する。
「相対化」というと素晴らしいことのように聞こえますが、神が世界をつくった時、そのつくられた一つひとつは「はなはだ良い」のです。絶対的に「良い」とつくられた神さまご自身がそう言っている。ところが人は「一人の人間の絶対的価値=神さまから見た価値」では満足せず、自分を相対化して、どのくらいの場所に位置するかで満足し、あるいは腹を立てる。
良く教育現場では山口県出身の希有な童話作家金子みすゞさんの「みんな違ってみんな良い」という言葉を切り取って使います。「そういう学校を目指そう」とか、「そういうクラスになろう」とか。でも、それが先ず間違いですよね。「みんな違ってみんな良い」は目指すべきゴールではなくわたしたちのスタートラインです。「はなはだ良い」と神さまがわたしに対してその存在のすべてを肯定してくれたから、わたしたちは生きる。人と人とが一緒に生きられる。違いはスタートでなければならないのです。それをゴールにしてしまうから教育の現場では様々な間違いが起こるのですよ。
さてリンゴの毒を食べてしまった人間が産んだ二人の兄弟の物語が今日読まれた聖書です。そしてさっそくその毒が兄の体を蝕んでいます。世の中には不条理が満ちています。自分が正統に評価されないことも当然ある。どうして神が「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(創世記4:4-5)のか、わたしたちにその理由はわからないのです。その不条理をカインは許せなかった。「カインは激しく怒って顔を伏せた。」(同)。それに対して神は問います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」(同6)。それはつまり「自分をしっかり保てよ」という呼びかけでしょう。「序列ではない、あなたはその存在そのままで貴いのだ」と。「はなはだ良いのだ」と。しかし人間はその呼びかけに応えることは出来ませんでした。自分の正しさ=だけ=で生きて行くことを選んだのです。怒りに震えているその時はそれが出来ると微塵も疑わなかった。ところがその通り自分の正しさだけで生きていこうとする時、激しい恐怖が彼を襲います。そのことは11節以下に書かれています。
わたしたちがこの世で生きて行くということは、この繰り返しなのだとつくづく思います。神の声に応えることが出来ない。自分の正しさが常に優る。しかし、あらゆるモノを序列化して相対化する中でしか生きて行けない以上、自分もまたその「正しさ」が相対化されるはずなのに、それは受け入れられない。その堂々巡りの中で、わたしたちは喘いでいるのかも知れません。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(同7)。わたしたちはたった一人で「それを支配」出来るのでしょうか?
イエスの執り成しに縋る他ないのです。
祈ります。 すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがわたしを「良し」としてくださったにもかかわらず、わたしは自分を誰かと比べ、優越感や劣等感に苛まれ、激しい怒りで自分の罪を支配するどころか罪に支配され続けています。その鎖を断ち切りたいのです。わたしたちの主が、このわたしを執り成して下さることを信じ、再び神さま、あなたの前に恐れながら立ち戻ります。どうぞわたしの罪を赦してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。