イザヤ33:17−22/黙示録7:9−17/マタイ25:1−13/詩編36:2−10
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。」(黙示録7:16)
今日の礼拝は「聖霊降臨節第22主日」で、聖霊降臨節が今日でおしまいになります。思い起こせばペンテコステがその第1主日です。今年で言えば5月23日でした。年によって少し違いますが、だいたい聖霊降臨節は21から22主日あります。そして来週の予告を見てくださるとわかりますが、来週からは「降誕前節」になります。クリスマスを前に9週間を「降誕前節」としているわけです。「アドヴェント=待降節」はよく知られていて、これはクリスマス前の4回の日曜日を指しますが、降誕前節はそれにさらに5回の日曜日を加えています。教団の聖書日課はイギリスで1963年に結成された超教派的礼拝研究団体である「合同礼拝研究委員会」が作成した改訂版聖書日課4年サイクルが基本になっています。合同委員会は「降誕前節」について「クリスマスの前に、キリストの到来を準備する9主日からなる期間。主要聖書は旧約で、創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を回顧する」としています。
一方、聖霊降臨節とは「救済史の中で聖霊に導かれる教会の時代に該当し、主要聖書は使徒書。」とされています。ところがそもそも教会のカレンダーはアドヴェントから始まるために、降誕前節の内最初の5回の日曜日は宙に浮いてしまいます。旧約が読まれて「創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を回顧する」のは良くわかるけど、聖霊降臨節おしりの5回はどちらに立つのか、救い主を待つ期節か、それとも教会の期節か、なんとも中途半端です。しかし、いずれにせよ今日の主日は、教会の暦の中でひとつの塊が終わる位置にあるということだけは確かなのです。教会の時代の締めくくりとして、わたしたち一人ひとりは神の救いのご計画の中にしっかりと位置づけられている。ゆえにわたしたちは「天国に市民権をもつ者」なのだ、というのが礼拝の主張でしょう。
そうは思いながら、でもわたしたちにとってはどうしたって現実のこの世での暮らしが何を差し置いても一番心を悩ませているわけです。
わたし、こう見えて佐野元春のファンだったりします。彼の数ある名曲の中で「情けない週末」というバラードが大好きです。一目会ったときから体が震える、そういう女性と出会って、もう他人同士じゃないという胸の想いから一緒に暮らしたいのだけれども、それぞれには今まで歩んできた別々の暮らしがある。そういう切ない胸の内をうたった歌ですが、その歌の中にこういう歌詞があります。「もう他人同士じゃないぜ、あなたと暮らしていきたい 生活という うすのろがいなければ」。2番になるとこの歌詞がこう結ばれます。「生活という うすのろを乗り越えて」。少しだけ光が見える終わり方です。
で、何が言いたいのか。クリスチャンといえども、信仰のみで頭のてっぺんからつま先まで、まるで天国にいるかのように生きて行くなんてことはできない訳ですよ、残念ながら。暮らしがある。ホントに「うすのろ」のような暮らしが。
そして、この暮らしの先に一体何が待ち受けているのか。人前では「クリスチャンでございます」と、「先行きに何の不安もございません」と表向きは装っているけど、信仰があるからと言って夢のような幸福が突然やって来るわけではない。相変わらずうすのろのような暮らしは続いている、そうせざるを得ない。その先に何が待っているのか。人はそれを「信仰が揺らいでいる」と言うかも知れないけど、事実そうなのだからしかたない。不安が不安のまま、下手したらどんどん不安が増幅する。「わたしたち一人ひとりは神の救いのご計画の中にしっかりと位置づけられている。ゆえにわたしたちは「天国に市民権をもつ者」なのだ」と胸を張り堂々とできない。そして「できない」という現実がさらに自分を追い込み落ち込ませたりする。それだけでも凹んでしまいそうなのだけど、それに輪をかけるようにこの世には不正や不正義がまかり通っているわけで。不条理だらけの社会の中でうすのろのような暮らしを立てて、行き着く先に希望を感じろと言う方が無理なのではないか。そんなことさえ思うのです。
ところが聖書はそういう現実を抱える者に対して不思議なことを語りかけます。「あなたの心はかつての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか/量った者はどこにいるのか/やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。あの傲慢な民をあなたはもはや見ない。」(イザヤ33:18-19)。「長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。」(黙示録7:14-16)。
聖書に出てくるほとんどの人たちが、日々の暮らしの中で苦難を経験し或いは恐怖を味わってきました。その人たちは特別優秀だったから、特別信仰心が厚かったから救われたのではない。そうではなく「まことに、そこにこそ/主の威光は我らのために現れる。」(イザヤ33:21)、わたしたちの労苦の現実に「主の威光は我らのために現れる」というのです。
ふと目を上げたとき、そこに神さまの眼差しがあった。労苦するわたしを見放す冷たい目ではなく、わたしを愛おしんでくださるかたの眼差し。その眼差しに支えられているから、うすのろのような暮らしをわたしたちは生きて行くことができるのですね。わたしたちに、無意味な命が与えられているのではない。確かな意味がある、そして確かなゴールがあるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの日々は暮らしに振り回されています。身の回りのどこにも、信仰が豊かにされるようなことは見当たりません。苦難や労苦の連続にしか思えません。しかし神さまはその苦難と労苦の現実の中に、わたしのために、光として現れてくださる。そのあなたの揺るがない約束を今朝戴きました。感謝します。わたしが揺らぐときこそ、揺らがないあなたを見あげることができますように。あなたの眼差しで包んでください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。