教会のホームページ更新の話し合いが続いている。実際に教会について、礼拝について、質問や相談を受けたことを募集したその集計を下に、今後のことを話し合っているのだ。
集まったものの中で、一際興味をひいた言葉があった。「見学・体験はできますか」。
街のスポーツジムなどでは「体験コース」が用意されている。様々なトレーニングマシンやエクササイズコースに触れて、動かして、汗を流して…というヤツらしい。英語教室だとか音楽教室だとかもそういえば「体験」という文字がよく使われている。
まてよ、我が幼稚園だってやっているじゃないか「体験入園」!。入園説明会に来た子どもとお家の人が一緒に、幼稚園の一日(半日)を実際にその場所で過ごすことによって知ってもらうという主旨。募集という幼稚園の一大事業にとって大きなプログラム。
スポーツジムだろうが英語・音楽教室だろうが幼稚園だろうが「体験コース」とは言うものの、つまりそこで行われる「ホンモノ」を提供するだろう。まねごとを体験してもらっても意味がない。ホンモノだからこその「体験」。誰かがやっているのを見ているだけの「見学」とは大分趣が異なる。
ところが、これがことキリスト教の「礼拝」という場面で「体験」という言葉が(もちろん「見学」だって)生じてこなかったのは何故だろう、というのが興味の本体だった。
そして考えた。礼拝に来ている人は──信仰生活の長いベテラン信徒も、あまり使いたくないがいわゆる求道者も──皆、誰にとっても「礼拝」とはいつでも「体験」以外の何ものでもないのでは、と。神との遭遇をマスターしている人なんていないのだ。
であれば、考えようによっては、毎週の礼拝はいつだって「体験コース」として開かれている、と言って良いのだ。ことさら「伝道礼拝」なんて言わないで、「一緒に体験しましょう」と呼びかけて良いのだ。その方がわかりやすいじゃないか。