ヨシュア6:1−20/ヘブライ11:17−22,29−31/マタイ21:18−32/詩編31:22−25
「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。」(ヨシュア6:18)
ヘブライ人への手紙は、アブラハムやイサクやヤコブやヨセフについて、そしてエジプトを脱出した人々について、更には大都市エリコを奪取した人々について、敵国人でありながらイスラエルを手引きした娼婦ラハブについて、その生涯が信仰によって支えられてきたのだと綴っています。
もちろんひとりひとりの人生はそれなりに長く、たった一つのことだけですべてを語り尽くせるとは思えません。
例えばアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるイスラエル史上もっとも有名な父祖ですが、その生涯を記した物語には「信仰の父」とは呼べないような失敗もたくさん綴られています。一断面一断面にはそういうこともたくさん抱えながら、しかしその生涯を俯瞰してみれば「信仰」によって支えられ、それのみによって生きてきたのだと纏められることに異論はない、という程度のことかも知れません。「約束を受けていた者が、独り子を献げようとした」(ヘブライ11:17)のはアブラハムの生涯の僅かな一断面ですが、アブラハムのすべてを代表している一断面でもある。僅かその一つの断面でアブラハムがこの地上に生きていた意味が十分にあるではないか、と。
聖書は人間を神にしません。だからたとえアブラハムといえどもその失敗も忠実に書き留めるのです。アブラハムの一挙手一投足すべてが素晴らしいとは言わないのです。ところがそれではアブラハムは「信仰の父」として不十分なのか。そうではない。神の救いの翼がアブラハムを覆っているのだから、神がアブラハムを義と認めるということがいつでも先行する。そして時折アブラハム自身はその義認から踏み外す。それでも神さまのご計画がすべてを包み込んで歴史が進んでゆくことを聖書は記そうとしているのだと思います。
教会に集うということは、ハイカラ趣味とかハイソサエティを気取ることとは全く別次元です。なんだかそう勘違いしてしまいそうになりますが。確かに、この国では特に教会は一般的な社会とは少し違う方向を目指しているのは間違いないでしょう。でも、社会が教会より一段下であるかのように捉えてしまうのは大きな勘違いです。でもけっこうあるんです、そういう勘違い。教会に何か“善い”ものがあって、世間ではそれを知らないから、世間に対してそれを知らしめようというような。そういう動機を包み隠す極めて便利な教会用語が「伝道」です。世の人に何かわたしたちの既に持っている、既に知っている、真理なり何なりハイソな何かを教えてあげようみたいな。そしてそういうことに熱心であることこそ「信仰による生涯」のお手本みたいに勘違いする。自他共にね。
でも聖書は、そういうことが人間の手本であるとは書かないのです。信仰のお手本であり「信仰の父」であるアブラハムを神のようにあがめ祀らない。アブラハムの欠点も失敗も余すところなく記す。それはアブラハムを貶めるためではなく、そういうアブラハムをご計画のために用いる神のわざこそが賛美されるためでしょう。神は、そう決心なさいさえすれば、道ばたの石ころからだってアブラハムを起こすことが出来るのです。であれば、教会に集うわたしたちが、一般社会の人々より一段上なハイソだなどと微塵でも勘違いしたら、それは滑稽以外の何ものでもないでしょう。
むしろわたしたちは、ヨシュアが民に向かって語ったように「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。」(ヨシュア6:18)と警告されているかも知れないのです。主に献げるべきモノをほしがり、自分の手柄にしようとする。神に栄光を帰すのではなく、自分の栄光に酔ってしまう。教会に集うことが一般社会より上位に入ることだと勘違いしてしまう。
神さまはそこかしこにその働きのために人を起こしてくださっているのです。わたしたちは、神さまこそが世界を救おうとなさっているその事実を知っているのです。そうであれば世界の到る所で神さまの救いのわざの跡を見つけ出すことができるはずです。その跡が教会にだけある、教会に集う人にだけ与えられているわけがない。わたしたちは真理を知っていて一般社会より上位にいるのではなく、神さまの救いのご計画の目撃者であり発見者にされているということなのではないでしょうか。
今日は「世界聖餐日」です。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」(Ⅰコリント11:27−28)とパウロは言います。わたしが信じているもの、わたしが伝えようとしているものは何か。改めて見つめ直し、「自分をよく確かめたうえで」、それでもなおこのわたしを生かす神の救いのわざの前に畏みつつ、喜びをもって主の食卓に招かれ集う者となりましょう。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたはわたしの全てを、人前に出せない陰の部分もすべてを知った上でなお、わたしを救おうとなさいます。あなたのその熱情ゆえに、わたしは今日新しい命を与えられました。あなたが今日もわたしを起こしてくださったのです。そのあなたに応えて歩むことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。