「落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」(Ⅱテサロニケ3:12-13)
先週、「小学校2年生が4年連続一番いじめ事象が多い」とお話ししました。保育の仕事に携わる者にとってとても衝撃的な事実です。手塩にかけて卒園させて2年もしないうちにいじめる/いじめられるの世界が展開するわけです。いじめられる側はたまったものではない。でもいじめる側も相当なストレスなのだろうと想像します。小学2年生に「ストレス」という言葉が普通に使われる。そういう社会にしてきてしまったのですよね。
コロナウィルス蔓延の中で、2年目を迎える今でこそ戦うものの正体が少しずつ分かり始めてきて、それほど過剰に反応しなくても良いのだと思えるようになりましたが、それこそ東京都での感染者が二桁から三桁に上がる頃のことを思えば、今振り返ると信じられないほど過剰な反応があちこちにありました。文字通り未知のウィルスでしたから、過敏にならざるを得なかった訳ですけれどね。「自粛警察」なんていうのもありましたね。今でこそ表面上は静かになったかも知れませんが、人々のホンネの中には今も「自粛警察」が潜んでいるのではないですか。他県ナンバーの車に「出ていけ」と貼り紙をするとか、「二度と来るな」と罵声を浴びせるとか。でも仮に他県ナンバーが入ってくることを完全に止めたとしたら、わたしたちはきっと今日食べるものにも苦労するでしょうね。流通がストップしますから。でも得体の知れないウィルスに怯えるときには、そういうまともな思考能力も衰えて、なりふり構わず除菌する。「他人を見たらばい菌と思え」みたいな反応をしてしまうのです。
どこかでわたしたちはとても表面的な、薄っぺらい正義感というモノをしっかり身に付けてきてしまったような気がします。その薄っぺらい正義感ゆえに僅か小学2年生の子どもがストレスに晒されて、いじめる人間を生み出している。自粛警察なんていうバカみたいな新興宗教を生み出している。そして敵はいつでも自分以外の外側にいる。悪いのはわたしではない。いかにも薄っぺらい正義感ですよね。
山口県に住んでいたとき、原爆は昔のことではないということを実感しました。被爆2世の友人がいてくれたことでそのことに気づくことが出来たのです。被爆者はその被害を正当に評価されませんでした。それなのに被爆しているという事実を伏せなければ暮らして行けなかった。本当に悪いのは市民を犠牲にして戦争という手段を選んだ者たちですのに、その結果被爆してしまった人たちがそれによって差別という被害を受ける。不条理ですよね。コロナに罹る人も同じです。流行病なんて誰の責任でもないのに、未だに─2年も経過しているにもかかわらず─患ってしまった人がまるで犯人扱いでしょう。気の毒な人たちが逆に差別される。昔からわたしたちには薄っぺらい正義感しかなかったのでしょう。そしてそのくせそれが増幅だけされる。薄っぺらい正義感の増幅された社会が、今私たちの暮らしている現実です。
パウロは面白いことを言いますよね。「聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる」(Ⅱテサロニケ3:11)。まともな生活を立てずに「余計なことをしている」って。パウロが批判の対象にしている人たちにも、それなりの論理はあるでしょう。でもその論理は言ってみれば思いっきり薄っぺらな正義感ですよね。本当なら「落ち着いて仕事をし」「たゆまず善いこと」に勤しんでいれば良いのに、自粛警察なんかにうつつを抜かす。パウロが語っている人々の姿は2000年も昔の風俗ではなく、21世紀のこの国の風俗そのものです。
問題は、わたしたちの薄っぺらさをどう克服して行けるのかです。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(マタイ20:12)と口から吐いているのは紛れもないわたしです。それに対してぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。」(同13)、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(同15)と。
わたしはわたし自身の中に、わたしを律することの出来る何も持ってはいないのです。「自分にはモノサシがある」と思ってきたけれど、そのモノサシはいつでも他人を計るものであって自分を計ることは出来ない決定的不具合を抱えていたのです。それなのに、そんな不具合のモノサシを振りかざして生きてきた。ならば、そんな不具合のあるモノサシを捨てるしかないのです。何も持たないで神さまの前に立つしかないのです。その時、願わくは、主がわたしを執り成して下さるように。それ以外にわたしは救われようがないのですから。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたこそがわたしたちを正しく測るモノサシです。わたしの持っているモノサシは他人を裁くことはできても自分を計ることさえ出来ません。にもかかわらず、そんな使い物にならないモノを後生大事に抱えているのです。イエスが示してくださった神さまあなただけが、わたしを正しく測るモノサシです。今わたしは使い物にならないモノサシを棄ててあなたの前に何も持たず立ちます。どうぞわたしたちの主が、わたしを執り成して下さいますように。そして神さまの御心に従う道に一歩進み出すことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。