出エジプト20:1−17/エフェソ5:1−5/マタイ19:13−30/詩編119:33−40
「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。」(詩編119:33)
先日新生幼稚園の先生たちのレポートを読ませてもらいました。夏休みの間にそれぞれいろいろな研修を受けるのですが、自分の受けた研修を先生たちの間で共有するためのレポートです。
その中で、川崎市子ども夢パークづくりに関わって15年間所長を務めてこられ、今は「フリースペースたまり場」を主催しているた西野博之さんの講演を聞いたレポートがありました。
この講演の中で、「義務教育9年間で一番いじめ事象が報告されている学年は何年生でしょう」という質問があったことが記されています。皆さん何年生だと思いますか。答えは2年生なんですね。少なくとも4年連続トップだそうです。西野先生はこう言っていました。「皆さんの幼稚園や保育園を卒園してゆくかわいい卒園生たちが、2年もしないうちにクラスの中でより弱い人をいじめる人間に変わってゆく。考えられますか。でもそれが現実なんですよ。」
子どもたちが置かれているストレスの現状をこの数字は表していると思います。今日、マタイ福音書を読みました。イエスの周りに手を置いて祈ってもらうために子どもを連れて人々がやって来ます。でも弟子たちがそれを叱ったので、逆にイエスは弟子たちを叱るわけです。そして「天の国はこのような者たちのものである。」(19:14)と言うわけですね。いじめの問題が多発しているから現代は病んでいる、昔はよかった、と纏めるのは簡単かも知れませんが、昔に至っては子どもには人権がなかったわけです。ユダヤでは13歳から大人の仲間入り──それも男子だけですが──するのです。それまでは数に入らない。子どもというだけで尊重されない。そんな子どもをイエス様の前に連れてくるなんて、というのが弟子たちの怒りの中味です。しかしイエスは逆にその弟子たちの常識を叱るわけです。そしてこれまでは周縁に押しやられていた子どもを自分の前に置いて手を置いて祝福したのでした。
ところがマタイ福音書はそれで終わらない。そのイエスの下にひとりの青年がやって来る。彼は既に一人前として人々に受け入れられ、しかも人々からある尊敬を集めていたような人物だったのでしょう。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(同20)という言葉にはそういう漲る自信のようなものが感じられます。
イエスの時代、子どもであるだけで受け入れられなかったのをイエスは受け入れた。しかしその子どもも一人前になると「出来る/出来ない」の価値観の中で、その価値観を疑いもせず生きていくようになった。そういうことが示唆されているような気がするのです。
今日の礼拝の主題は「新しい戒め」です。そして取り上げられた聖書の箇所が出エジプト記20章の「十戒」です。エジプトを脱出したイスラエルが、民族としてヤハウェ共同体になるために与えられた戒めです。これは決して「新しい戒め」の対になる「古い戒め」などではないと思います。イエスが青年に示したものこそ「十戒」でした。そしてそれを「既に皆守っている」と自負する青年に、「十戒」の実生活での展開を求めたのです。その時青年はそれを受け入れられなかった。「悲しみながら立ち去」(同22)るしかなかったのです。
今、わたしたちの生きている現代でも同じではないでしょうか。「十戒」は決して古くさい戒めではなく、今でも崇高な戒めです。わたしたちは「古い」この「十戒」ですら十分に守ることなど出来ない存在でしょう。わたしたちも「悲しみながら立ち去」るしかない。
パウロは、「出来ない」というところから出発しろとわたしたちに呼びかけているのではないでしょうか。「神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と言われて「そうだ、その通りだ」「そういうことはみな守ってきました。」と胸を張ることなど出来ないです。パウロは「信徒なら出来るし出来なければならない」とは言っていない。そうではなく「キリストがわたしたちを愛して」(同2)くださったから、「あなたがたも愛によって歩みなさい」(同)と言う。その「愛」とは「御自分を…いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(同)ということです。それをあなたも、とは言っていない。たとえ言われても無理です。出来ない。わたしには出来ないのです。だからこそ、出来ないところから出発する。「そういうことはみな守ってきました。」と胸を張らなくて良いのです。
出来ないから、出来ていないからこそわたしたちは神さまの前にひれふして祈るのでしょう。「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。」(詩119:33)。出来ないわたしを、出来ないゆえに神さまに捧げる。わたしたちに出来るのはそういう歩みだけなのでしょう。「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。」(同)。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは御子イエスをわたしたちにくださることであなたの愛をお示しになりました。わたしたちにはその愛にお答え出来る何もありません。あなたの戒めを守ることさえ出来ません。でも、それでもあなたに従いたいのです。その道をどうぞ示してください。主イェスが示してくださった神さまの愛を信じ、あなたの赦しの御手の中で生きて行くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。