「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」(ヤコブ2:12)
バプテスト教会は「新生──新しく生きる──」ということを大切にしてきました。そうは言っても「新生」という言葉自体はバプテスト派の専売特許ではありません。今では1730年代から英米で繰り返し起こった信仰復興運動や大覚醒に連なる福音派や聖霊派がむしろ好んで使っている言葉です。
バプテスト教会は自らの教派名に「バプテスト」と付けているように、全身を水に沈める儀式を教会の中心に据えたわけですが、本当はむしろその儀式の前提となる、一人ひとりの「信仰告白」をこそ第一としていると見るべきです。だからバプテスト教会では「信仰者のバプテスマ」を最も大切にしてきたのです。神さまの救いのご計画が、イエス・キリストによって明らかにされたことを信じ、受け入れる決意を表明する。自覚的にそれが出来ない者には洗礼を授けない。何故なら「信仰告白」とは、見えない神の救いのわざが先ずあって、それを信じ、その御手が自分の上にも添えられていることを自覚した者の告白だからです。「自覚する」というのがもし強すぎるとするならば、「認める」とか「追認する」という言葉になるでしょうか。神さまのわざが先行し、人間はそれをあとから自覚する・追認するのです。その自覚あるいは追認ということこそ「新生」なのでしょう。神のわざによって既に救われていたことがわかったから、これからはそれがわかった者として、つまり「救われた者」として生きる、生き直す。新生する。Bone Againですね。
信仰者個人の視点で考えると「新生」ということがバプテスマを受ける上でとても大事なことなのだとわかります。そして、一人の人をバプテスマを通して受け入れる教会にとっても、その人が「新生」を体験しているかどうかがとても重要になるわけです。だからバプテスト教会は本来ならば洗礼を受けることを希望する者が本当に新生を経験しているのかどうか厳しく吟味したのだと思います。今はキリスト教の主流派といいますか守旧派といいますか、古くからの歴史を持っている教会はどこもこの国では受洗者の数が激減していますから、洗礼を受けたいと思う人に対して「新生を経験しているのかどうか厳しく吟味」するゆとりなんかないと思います。四谷新生教会にしてもそうではないでしょうか。それは良いか悪いかの問題ではなく、現実にそうです。そして現実にそうだというだけでなく、次にお話しします事柄によってむしろ厳しく吟味しないことの方が分があるとわたしには思えます。
今日ヤコブの手紙を読みました。この手紙は宗教改革者ルターが「藁の書簡」と呼んだということで有名です。でも、ルター自身はヤコブ書に価値がないとは言っていません。むしろ真逆で「初代の人々の廃棄したところのものであるが、私はこれを称揚しそして矢張り優れたものだと思ふ。」(『聖ヤコブ及び聖ユダの書翰への序言』)と言っています。それでも「藁」だというのは、イエスについての言及がないこと、使徒ヤコブが書いたものではないこと、そして最大の理由が「行為義認」を主張していると読めることでした。
今日お読みいただいた箇所を読んでみて、皆さんはどうお感じになりますか。「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(2:8-9)なんて、至極尤もなことを言っていると思いませんか。ヤコブが行為を強調する理由がここにあります。初代教会の頃から、「信仰があれば行いはいらない」と勘違いする人が多かったり、宗教改革以降になると、本来「律法の実行によっては義とされない」というパウロの主張が「行いは不要」と短絡的に片づけられ、キリストの教えもただの精神論と化してしまった。現代ではさらにその先を暴走しているわけで、そういう状況ではなおさら「律法を実行出来ないことは罪だ」というヤコブの主張には聞くに値するものがあるではないか。そう思います。
パウロは一人のユダヤ教徒として神のご意志を表す律法を長年の間文字通り命懸けで守る努力をし、それをすればするほど深みにはまってしまう人間の闇を自分の中に発見して初めて、そのような闇を抱える自分にも神は好意を持っておられるのだと実感した。だからそんな神に自分を委ねようというのがパウロにとって「神を信じる」ということです。彼こそ「新生体験」をした人なのですよね。そしてパウロにとって人間とは身体性をもっているのだから、信仰も「心の問題」だけではなく体を持って生きることであり、必然的に実生活の中に信仰が現れてくるものなのです。であれば当然「わざを伴わない信仰」などというものがあるはずはない。そしてヤコブはまさにそのことを言っているのです。
岩波版新約聖書で「公同書簡」を翻訳担当された小林稔さんはその解説の中でこう書いておられます。「宗教体験は体験自体を検証出来ず、体験したという人の人柄、雰囲気、生活の変化で判断する他はないから、多くの『成熟した』宗教で信仰者の生活態度が重視されるのは当を得ている。また、そこへ至るまでの過程においては、深い宗教体験なしにも、ある程度は自分の努力で生活を改めることもできるし、また改善努力が要求されもする。それ自体悪いことではない。しかし、そのような人々を相手にした文書が教派を代表するものとなれば、その宗教は、人を歓びで満たし、人々への奉仕に内から駆り立てる宗教体験なしに、恐れと脅しで人を縛る、掟と規則の総体にもなりかねない。」。
結局、わたしたちは神ではないし神の御心を代表したり代弁したりも出来ません。だから神の思いで人を見たり人の行いを評価することも出来ないのです。洗礼を受けたいという思いは、なんであれその人の内に何か歓びの宗教体験があったからに違いありません。それを吟味するのはその人の固有の努めです。共同体が神に変わって吟味したり正しいとか誤りだとかを判断出来るものではないでしょう。出来ることは共に喜ぶことです。いずれはわたしも、ここにいるすべての人も、裁かれる身の上です。その自覚の上で、共に生きる生活に喜びをもって入っていきたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの赦しがすべてに先立ってわたしの上に起こっていることをもう一度信じさせてください。今も全く色褪せずにそれが引き起こされていることに目を留める者としてください。新しく生きる喜びをわたしたちに満たしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。