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2021
05Sep

「神の国の算数」滝澤 貢牧師

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エゼキエル37:15−28/Ⅰコリント1:10−17/マタイ18:10−20/詩編147:1−7

「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(Ⅰコリント1:10)

わたしは子ども時代、いわゆる「よい子」でした。「よい子」というのは子どもなりに周囲の大人の要求を敏感に感じ取る子どもという意味です。本来なら子どもらしくあるべき子どもですが、「大人しい」子ども、つまりへんに大人っぽい子どもだった訳です。先生が求めるであろうことを先取りして行う子、周囲の力関係を微妙に読み取ってより大きな力を持つ人の要求にわれ先に応える子、そんな子でした。だから勉強が出来たわけではないけれども出来るように振る舞う子でもありました。算数なんかはそういう点ではとても都合の良い教科です。だいたいドリルというのがあって一つやり方を憶えたらあとは応用が利くような問題ばかりですから簡単に大量に解くことができる。一方、漢字ドリルなんかは本当に根気が要るわけで、そういうものは中々進まない。じゃあ国語はどうするかといえば、作者の感情を取り込む、読み込むことに長ける。だいたい授業で扱う読み物なんて、問題を先に読めば全部読む必要はないわけで、そういうところだけ重点的に目を通せば、漢字ドリルの不出来を十分にカバー出来る。やなヤツです。

というわけで、算数についてはちょっとした自身があったわけですが、今日の聖書の箇所を見ると、そんな自信がぐらつきます。というか、算数の常識が全く通じません。

最初に読まれたのはエゼキエル書でした。エゼキエルは紀元前597年にユダ王エホヤキンとその側近や祭司や預言者やエルサレムの技術者などがバビロンに連れて行かれる、いわゆる第一回捕囚の民の中にいました。エゼキエルは捕囚の民のひとりとして、その5年目に「ユダとエルサレムの滅亡を語れ」と神に命じられるのです。バビロンである程度の自由が保障され、反バビロニア運動さえ出来た捕囚民には、祖国に対する期待がみなぎっていたのですが、その彼らに対して「祖国は滅ぶ」と語る役目を担わされたのです。そしてその通り紀元前587年にはエルサレムが陥落し、ユダ王国の同胞たちがバビロニアに捕囚されます。第2回捕囚です。祖国への絶望が広がり始めたその頃から、今度はイスラエルの回復を語り出します。

そのエゼキエルの見た幻の一つを今日読みました。「わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。」(37:19)。つまり、「1+1」が「2」ではなく「1」になるのです。それが神の御心なのだ、と。

福音書も読まれました。「弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。」(18:1)ことにイエスは「いと小さい者」を挙げるのです。それは子どもであったり迷い出た一匹の羊であったりするわけですが、そこに99匹と1匹の対比が出て来ます。「九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(同12)。

つまりイエスが言うには「99>1」ではなく「99=1」という計算なのです。1の99倍ではなく、99も1も同等だ、と。むしろ「いと小さい者」の主題から考えたら逆に「1>99」でさえある。それが天の国だとイエスは言うわけです。

聖書が示す「天の国」あるいは「神の国」での神の御心とは、私たちが暮らすこの世界の常識とはずいぶん違う、あるいは真逆の姿でそこにあるようです。つまり聖書は、わたしたちの常識に対して敢然と挑みかかってくるのです。

そういうふうに聖書を読んでみるとしたら、今日パウロがコリントの信徒たちに勧めている言葉にもわたしたちの常識とは異なる意味があるのかも知れません。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(Ⅰコリント1:10)。

オリンピックでは毎回必ずメダルの数が報道されます。「日本のメダルは何個になった!」と鼓舞されるわけです。否応もなく国家に同一させられる。それが自国開催となれば、コロナだろうが何だろうが「思いを一つにして」と国を挙げて叱咤激励されている。そんなこの夏でしたね。

パウロが「心を一つにし思いを一つにして」という言葉を発しているのは、もちろん意図があったのです。それは今日お読みいただいた箇所の一つ前にあります。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(18:9)。つまり、わたしたちは神の真実によって「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」、既に「ひとつ」なのです。それなのに「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っている」(同12)のはオカシイだろう、と。算数の「=」とは「完全一致」を意味しますが、キリストに従う者たちには別に「完全一致」が求められているわけではないのです。だってわたしたちが一致に努力する遙か以前から「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられ」一つになっているのです。だから今様々なグループがある現実は、仲違いや主導権争いの種ではなく、豊かさの表れなのだとパウロは言いたかったのでしょう。その翼はキリストや神を否定する者にだって及ぶ、わたしたちの常識を遙かに超える広さと豊かさを持っているのです。

「交わりに招き入れられた」ことを先ず心から喜ぶ者でありたいと思います。

祈ります。

すべての者を愛し、お導きくださる神さま。今日わたしたちはここに集まり、あなたを礼拝しています。あなたがおつくりになった世界の到る所で、あなたを礼拝する者たちが集められています。教会で、あるいは家庭で、あるいは想像を絶するような過酷な場で、あなたの名前が呼ばれるとき、どうぞあなたがそばにいてその祈りに応えてください。わたしたちがあなたを意識するはるか以前から、あるいはあなたに敵対していたときでさえも、あなたはわたしたちを愛し、いつも支えていてくださいました。今心から、あなたの交わりに招き入れられたことを感謝し、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.23 「世代」ということを考える

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