列王上3:4−15/Ⅰコリント15:35−52/マタイ13:44−52/詩編104:24−35
「「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。」(マタイ13:51)
昔、先輩牧師にこんなことを呟かれました。「わたしは信徒の前で『わからない』と言えないんだ。」。とても生真面目な、そして比較する必要もないのだけれどわたしなんかよりずっと熱心に教会のためにつくしている牧師さんでした。先輩である彼がそのように呟く。彼の性格を考えればおそらくそう呟かざるを得ないことは感じていました。たしかにそういう牧師だったのです。一方でわたしは「わからないことはわからない」という性格です。だからその先輩にも「わからないことは牧師だってわからない、それでいいんじゃないでしょうか。」。全く説得力も何もない答え方でした。当然のように先輩は「そういうものかねぇ。」と。
江戸時代には「講釈師」という職業があったそうです。民衆を相手に「太平記」などの軍書や中国の戦記伝記、人情咄などの本を面白く注釈を加えて読む人のことだったとか。これが明治に入ると講談という話芸に発展し、今に続いているのだそうです。で、良く引き合いに出されるのが「講釈師見て来たような嘘をつき」。
牧師も似たようなものではないでしょうか。聖書に書いてあることが全部理解出来るなんてあり得ないと思いますが、皆さんはどうですかねぇ。でもその聖書のことばに注釈を加えて話しをする。見たこともないこと、理解出来てもいないことをさも見て来たように話す。ウソ、とまでは言い切れませんがねぇ。
「死者の復活」なんて、その筆頭のような気がします。そもそもだれも死んだことはないのです。辛うじて「臨死体験」というのはあるかも知れませんが、先ずここにいる人たちはみんなだれもまだ一度も死んだことがない。だから当然死からの復活なんて体験したことはないわけです。見たことも経験したこともない。だから死後の世界があって、信じる者には死後天国が約束されている、しかも現世ではあり得ないようなパーフェクトな体になるなんていうことが盛んに宣伝されたら、ひょっとしたら心が揺らぐかも知れません。コリントの人たちもそうだったのでしょう。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」(Ⅰコリント15:35)とパウロはそう期待する人たちがいることをここに記しています。ところがそういう人たちに対してパウロが放った一言が「愚かな人だ。」(同36)。なんだか身も蓋もない言い方です。当初わたしはコリントの人たちが様々に思いを募らせているその中味が全く的外れだからパウロがたしなめているように読んでいたのです。だから「愚かな人だ。」の後に続いている文章は復活についての正しい解説が書いてあるのだろう、と。
ところが、その解説と思われるところを読んでも、全く腑に落ちません。正解が書かれているとは思えないのです。何とか必死に説明しようとしている、とも思えないのです。ひょっとしてパウロは復活についての誤解を解く、正解を教えるという意図を最初から持っていない。そもそも「死者からの復活」を最終目標・最大の望みとすること自体が間違っている、と言おうとしているのではないか。
最近関田寛雄先生が新しい本を出版されました。新しいといってもこれまでに先生が語られたり書かれたりしてきたことをまとめたものです。だから余計に93歳の生涯を貫く思いが明確に現れている本と言えるかも知れません。
その中で関田先生はこんなことを書いています。「復活の命と言い、永遠の命と言い、それは死後の世界に関わるものではない。復活の命とはこの世における究極的な否定としての死をさらに否定し、絶対的肯定の命を生きることであり、この世界における神の恵みの勝利の信仰に生き切ることである。また永遠の命とは死後なお霊魂的な生が続くというのではなく、時間の中に生じるあらゆる不条理の事態を突き抜けてなお、その人を生かしてやまない恵みの力に生きることである。時間に対決するものが永遠であり、しかも永遠は時間の中で体験される。」。
わたしたちは「死後なお霊魂的な生が続く」ことを究極の希望としていないでしょうか。あの世での幸せが本当の幸せである、みたいな。でもそれは残念ながらどれ程敬虔な宗教的表現を伴っていたとしても、結局この世からの逃亡でしかないのです。そうではなく「この世界における神の恵みの勝利の信仰に生き切る」ことなのですね。
わたしたちは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ福音書6:10)との祈りを、自分の祈りとして生きる、生き切ることが究極の希望なのだと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちは、あなたによって与えられた命をこの世に持っています。だからこの世をこそわたしたちの希望の源としなければなりませんでした。それは苦悩の道です。それゆえにあの世を願い、来たるべき世での幸せを夢見たりもしてきました。しかしそれは間違いでした。わたしたちの主がいのちをかけて神さま、あなたへの信仰を生き切ったように、わたしたちもわたしたちの主への信仰をこの世で生き切ることが出来ますように。天におけるように地の上にもあなたの御心が行われますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。