マルコによる福音書 7章31節-37節
この聖書個所の共観福音書マタイ・ルカによる福音書では、悪霊による病とされています。マルコによる福音書では、9章の癒しが汚れた霊による障害とされています。「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
共観福音書はマルコによる福音書を共通のベースとして、マタイ・ルカに共通のQ資料とそれぞれ独自の資料を基に、それぞれの思いで福音書が編纂されています。
マルコの耳の「聞こえない、口のきけない方」の癒しの物語は、生まれつきの障害によるものとして7章に、霊によるものとして9章の、ふたつの事柄が別の事柄として記されています。そして、マルコによる福音書に記されている、障害者の癒しの奇跡の物語の中でのイエス様や関わる周りの人たちの対応は、私たちが今、どのように障害を負った方々とかかわったらよいか、またイエス様による福音をどのように受け止め伝えたらよいかを教えてくれていると思います。
聖書の言葉を調べて、イエス様の癒しの奇跡の業を通して、私たちに何を伝えようとしているのかと思い、また、福音書を書いてくれたマルコさんは、イエス様の奇跡の業を通して何を伝えたいのだろう、福音を伝えたいこと、喜びの知らせを伝えたいことはわかっていますが、どんな喜びを伝えたいのかと、思いめぐらしていますと、「お前が耳の聞こえない人たちと、どのように関わってきたのか!?」と問われる心の中で、声が聞こえてきてハットしました。
耳の聞こえない方たちと私自身が、どのように関わって来たかを思い起こしてしてみると、難聴で耳が聞こえない、軽度の知的障害の方の相談支援(障碍者のケアマネージャー)を担当し、その方の独りでのアパート暮らしの難しさを体験しました。聞こえない事、理解できないことの中から、自分の思いを表現することの大変さの中で、2度ほど殴られそうになり、ヘルパーさんに助けられたことを思いだしました。この方は、中途障碍なので話す事ができました。
もう一人、相談支援でかかわった方がいることを思い出しました。生まれつき、サリドマイドのような短い手と3本しか使えない指、そして、聴覚障害のため、補聴器を付けていますが、ほとんど聞こえないため、話すことができず、会話は筆談でした。筆談していて、区役所の障害担当の方と私の思いは、理解力が低いことから、知的障害もあるのではないかと疑っていました。が、知的障害については車の免許を取得できていることから、知的障害ではないだろうことは想像出来ました。
なぜなら、私が25年ほど前に、勤めていた知的障害者の施設に併設されている児童施設は、年末年始には卒園して社会人になった方々が、帰省してきます。その方たちの話によると、実社会の中で軽度の知的障碍者の手帳は、何の役にも立たない、むしろ、知恵遅れと思われ、当てにされず、ちゃんとした仕事に就けないなど、知的障害の手帳は世の中で働くためには邪魔になるそうです。そこで彼らが挑む身分証明書が、原付の免許証でした。この免許証があれば、顔写真付きで、一人前の人間として認められ、配達の仕事にも就くことができるとのことでした。
従って、自動車の普通免許を取得している彼は、知的障害はないと判断できます。そこで、知り合いの手話通訳者に、この方が話の半分も理解できないと伝え、理解力に問題があるかを伺うことにしました。
その手話通訳の方から、適切なアドバイスをいただく事ができました。聴覚障碍者で小さいころから、筆談や唇を読んだり、手話を使っている方たちは、理解力に問題はないが、聾学校から学んだ人たちの中には、話の流れを理解することが難しい方たちがいることを伺いました。例としては、京王線の府中から、目白へ行くのに、新宿で乗り換えてくださいと、伝えても目白へ行かれない方がいるとのこと。それはプロセスをきちんと説明し、段階ごとの理解を確認しないと大きな流れをつかめない方がいるとの事です。
具体的には、府中から京王線で新宿に着いたら、JRの山手線の池袋・上野方面に乗り換えて目白へ行ってください。と説明しないとわからないとのことでした。
それからは、話の流れを説明し、プロセスごとに説明して、確認を得るようにしました、そして、大事なことは、聞いた話の内容をご本人に書いていただいて理解されていることを確認するようにしました。
もう一方、居ました。この方は後天的な全盲で生まれつきの聴覚障碍者で、聾学校へ行きましたが、手話の勉強を拒否して、唇を読んで、声を出すことを訓練されたようですが、あまりうまくはいかず、社会にも出ましたが、人間関係がうまくいかず家で過ごすようになり、視力も失ってしまって、65歳以上の高齢になられたため、成年後見人を付ける為、区長申し立てをするために関わるようになりました。
2~3回しかお会いしていませんでしたが、ジェスチャーでコミュニケーションをとろうとして、行っている動作が手話で見たことのある内容なので、知り合いの手話通訳の方に聞いたら、「頬をなでる」動作は「誰?」と聞いているとのこと。「胸を撫でる」動作は「判った」という意味であることが判明しました。手話を習っていなくても、聾学校では仲間と手話を使っていたことが伺えます。マメにかかわっているケアマネージャーの方たちにそのことをお伝えしました。・・・いくらかコミュニケーションが取れるようになるかと思います。
イエス様は、「指をその両耳に差し入れ」とあります。これは今でいえば、補聴器や骨伝導補聴器と同じように、聞こえるようにしてくださったと思います。
又、補聴器を付けてもほとんど聞こえない方たちは、口で話すことは言語障害はなくても難しいようです。・・・訓練で話し言葉の音を出すことができる方もいるようです。自分の出した音をオシロスコープのようなもので波形の形で確認しながら、口の形と舌の動きを作ることで可能であると思います。
イエス様は、天を仰いで深く息をつき、と記されています。「それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」「天を仰いで」という祈りは5千人の配食のパンを割くときのお祈りでした。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」
そして、「エッファタ」「開け」という言葉は、単に開けではなく、マルコ福音書では個々の一か所だけですが、ルカ文書によく使われていて、「解き明かす」、「心を開く」、「心の目を開く」という意味で使われている動詞の命令形なので、『「心を開け」そして話しなさい』とイエス様は命令されている事と思います。
イエス様がこの奇跡をおこなうのに、5000人にパンを分ける奇跡と同じくらいな、エネルギーを天から受け止めなければならなかったと思われます。
このことから、今の私たちが、聴覚障碍者や言語障碍者とかかわるとき、彼らが「心を開き、話すことができるように」彼らの話しにくい状況、聞き取りにくい状況を理解し、配慮して聞き取っていくことができるように考慮することは大変なエネルギーをお互いが使う必要があるということです。
それはコミュニケーションは人が、人間社会の中で生きていくときに、その義務と権利を果たすためには、なくてはならないことだからです。
繰り返しになりますがイエス様は、「指をその両耳に差し入れ」て癒されたように、いま私たちがそのハードルをお互いが乗り越えやすいように、筆談しやすい機材、補聴器が聞こえやすくなるようなループなどの環境設定を整えることなどを配慮が、イエス様の癒しの行為につながると思います。
又、聴覚障碍者や言語障碍者とのコミュニケーションを私たちも一緒に心を開いて、遠慮なく、お互いが理解できるまでいろいろな方法を用いて理解し合う事をイエス様は、私たちに「心を開いて、話すことが出来るようにしなさい」と言われています。