コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節-27節 今日は司式をされている光さんのお誕生日です。お誕生日おめでとうございます。私は光さんがお生まれになった時、虎の門病院に行って新生児室にいる赤ちゃんの光さんに会いました。お母様の井口節子さんは私の教会学校の先生のお一人でした。私はその時16歳で、一人っ子でしたから生まれたばかりの赤ちゃんに会ったのは初めてで、とても感動しました。その時のお祝いカードを節子さんがアルバムに貼ってくださっていたそうす。それがきっかけで、転居などですれ違ってこれまで交流の少なかった光さんからの、8月8日の誕生日の礼拝に証しをとのリクエストとなり、これはお受けするしかないなと思いました。 思えば私にとっての教会は、初めてのことをたくさん体験し、異文化と出会う場でした。中学生になり女子学院に入って私は初めて教会に来ました。昨年亡くなられた友井百合子さんは素晴らしく知的で、お料理や手芸など私の家庭にはないものをたくさん教えてくださり、中高生だった私は百合子ママと呼んだりしていました。友井美和子さんにもそれは可愛がっていただき、夏休みなどに友井家にお泊りに行くのが楽しみで、言葉が上品になって帰ってくると母が言っていました。お子さんのいらっしゃらなかった百合子さん美和子さんは、たくさんの人たちの母のような役割を担ってこられたのだと思います。私の家はひとり親家庭で父親の存在が薄かったので、甲原牧師はある時期わたしにとってお父さんのような存在で、慕ったり反抗したりしたものでした。 社会の中に、家族以外の大きな影響を与えてくれる出会いがあることはとても大切で、時には家族によっては得られないものを補い、人の傷をも包み、人を育むのだと思います。 私は、保育園、女性相談センター、母子生活支援施設などで働いてきましたが、職業生活最後の10年間を婦人保護施設慈愛寮の施設長として、行き場のない妊産婦と生まれたばかりの赤ちゃんと共に過ごしました。教会からも毎年クリスマス献金を頂戴しましてありがとうございます。ご献金いただきながら慈愛寮のことをお伝えすることもあまりなく来てしまいましたので、少し慈愛寮のお話をさせてください。 慈愛寮の歴史は127年前にキリスト教婦人矯風会の女性たちの手でつくられた、慈愛館に始まります。矯風会の女性たちは、親に売られるなどして性を売ることにしか生きる道のなかった女性たちへの「われらが姉妹ならずや」と言うまさにシスターフッドの精神で慈愛館というシェルターをつくりました。そして吉原を脱出してきた女性をかくまい、足尾鉱毒事件の地から少女たちを避難させ、女性たちを守りその生活再建を支援したのでした。その時代々々の困難に直面している女性たちのニーズに合わせて運営され、第二次大戦後、売春防止法の施行に伴って婦人保護施設慈愛寮となりました。1960年代の終わりからは妊産婦と新生児に特化した婦人保護施設になっています。 妊産婦と言っても、出産するという大切な時に、子の父親をはじめ親兄弟、誰の助けも得られず、ひとりで出産の時を迎えなければならない、多くは住むところも失った女性たちです。小さい時から虐待を受けてきた人が多く、父親や身近な男からから性虐待を受けてきた人、行き場なくさまよいながら性風俗で搾取され心身ともにぼろぼろになっている人、夫や交際相手からの暴力から逃れて追われているために親族にも連絡を取れない人、また、そのような重なる被害による精神疾患に苦しむ人もいます。あるいは知的障がいや発達障がいによる生きにくさ、外国にルーツを持つ困難や生活困窮に目をつけられ、性的搾取の対象になってきた人もいます。そのような複合的な困難の中での、妊娠・出産です。コロナ禍において、そのような女性たちの抱える困難は、ますます深刻な状態になっています。 慈愛寮では、そのような女性たちが着の身着のままで来ても、なにも困らずに生活を始めることができるように、福祉職・心理職・助産師・保育士・栄養士・調理員・嘱託の精神科医、弁護士などによるチームで、心身の回復を支援し、産前産後の生活と育児の支援、これからの母子での生活にむけての支援をしています。彼女たちが失ってきた家庭、あるいは脅かされてきた家庭に替わって、安心して暮らせる場なのです。「ここで暮らすことで傷が癒されていく場に」ということが慈愛寮で大切にしていることです。慈愛寮で産前産後の時を過ごし、母子生活支援施設(母子寮)など次の生活の場に退寮してからも、頼れる所がほとんどない女性たちにとっては、慈愛寮は実家のような役割を果たしています。 さて、慈愛寮にたどりついた若い女性たちは、虐待や性虐待を受け、家が安全な場でないために家出をして街をさまよう経験を多くの人がしています。被害を受けて居場所を失っているのに、その姿は「非行」だととらえられがちです。そして声をかけてくるのは、助けてくれる人ではなく、性を目的に近づいてくる男ばかりです。そうした中で犯罪に巻き込まれたり、逆に加害者の立場になることもなくはありません。しかし、たどれば皆、被害を受けてきた子どもたちであった。被害から逃れ守られる場を、社会が用意できないまま孤立してきたということを強く感じます。彼女たちは守られるべき時に守られず、偏見や差別にさらされて、一層生きづらさを抱えていくことになります。そのような究極の孤立と生活困難の中に置かれた女性たちに、仕事を通して出会ってきました。 もう20年も前のことになりますが、四谷新生教会のクリスマス祝会の余興で、「現代版靴屋のマルチン」という劇をした事がありました。トルストイの「靴屋のマルチン」は、疲れたおじいさんや貧しい母子などマルチンが親切にした人たちが、実はイエス様だったという物語です。それを現代版にアレンジし、イエス様が酔っ払いや非行少女などの困った人になって教会にやってきたら・・・という設定で、私は厚底靴で闊歩し煙草をふかしながら、クリスマスツリーを見に教会に立ち寄るギャルに化けて、皆さんに「え?あれは誰?」と言われながら、楽しく演じたことを思い出します。私にとってそのようなギャルは、実は毎日仕事で出会っている身近な存在でした。「常識的」ではないと見た目からは思われがちな彼女たちの、ふとした時に見せるやさしさや、凄まじい苦難の中を生き抜いてきた力に、私は自分の常識的な感覚のお粗末さを打ちのめされる気がしていました。もちろん彼女たちは困りごとも弱さも様々抱えており、支援が必要だから施設での暮らしを選んでいるわけですから傍らにいて私も共に苦しくなることも多く、そんな時は神様に委ねて祈り、私はこの仕事の中で神様に再び出会ったように思います。そのような仕事の中で、私自身が支援をする立場でありながら、彼女たちの輝きにふれることで逆に支えられているような、人生の真実を見せてもらってはっとするような場面がたくさんありました。そんな時、ふと心に浮かぶのは、お読みいただいたコリントの信徒への手紙の箇所でした。 慈愛寮は共同生活なので、時に利用者同士のいさかいに悩むこともありましたが、そんな時に聖書にこんなことが書いてあるのよ、などと朝の集まりのひと時に女性たちに話したこともありました。慈愛寮では毎朝讃美歌を一曲歌う慣わしでしたが、慈愛寮での一番人気の讃美歌は、60番。「よい子になれない私でも、神様は愛してくださるってイエス様のお言葉」でした。 慈愛寮に来る人達は、妊娠・出産というできごとがなければ、未だに支援には繋がっていなかっただろうと言う人も多く、なぜこんな過酷な環境に居ながら支援につながらなかったのか?と歯がゆい思いをしていました。それで定年退職後は、若年女性を支援する、Colaboや、にんしんSOSなどの、支援が本当は必要な若い女性たちにつながろうとするアウトリーチ活動をしている団体のお手伝いをするようになりました。Colaboは居場所のない少女たちに出会うために、ピンクのバスで新宿や渋谷で夜の無料カフェを行っています。Colaboの代表、仁藤夢乃さんは自分自身が家庭内に暴力があって家に居られず、月の内25日を渋谷で過ごす高校生だったそうです。夜を渋谷で過ごし冬の早朝家に帰ってきた時、道ですれ違ったおばあちゃんが「寒いわね、風邪ひかないようにね」と声をかけてくれて、親にも言ってもらえない声掛けをしてもらえたのが嬉しくて泣いてしまった、と言っていました。おそらくその時の仁藤さんは見るからに普通の子ではない風体だったと思いますが、偏見にとらわれずに、心の声をキャッチできて、自然に声をかけたどこかのおばあちゃんは素敵だと思います。今は声をかけられた仁藤さん自身が行き場のない女の子たちに声をかける存在になってColaboの活動をしています。 私たちの社会から、偏見や差別で排除される人や、居場所のない人々がいなくなる時、すべての人にとって、安心な社会になるのだと思います。私たちの教会がそのような「共に生きる」社会の実現のために祈り、何らかの役割を担っていけるようにと願います。
2021
08Aug
証し「さあ共に生きよう」 細金友里江さん
