ヨナ3:1−5/使徒9:26−31/マタイ9:35−10:16/詩編71:14−19
「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(使徒9:26)
以前いた教会で、熱心な最年長の信徒が「この教会に若い人が集いますように」と祈っておられました。当時本人は80歳を超えていたかと思います。長いこと教会を支え続けてきた人です。この祈りは真剣そのものでした。
ところが、ではその教会に若い人はいなかったのか。いるのです。洗礼を受けるには様々な事情があって至っていませんでしたが、礼拝に出席していたのです。ただ、この最年長の信徒の方と礼拝に集っているこの若い人とが言葉を交わしている姿は見たことがありませんでした。だからおそらく年長信徒は青年がいることに気づいていなかったのかも知れないのです。
これはどういうことだろうか、自分のことに置き換えて考えてみます。仕事が溜まってくると机の上にたくさんの資料が山積みされます。で、必要な一枚がなかなか見つからない。そんなことはしょっちゅうですよ。で、どうして見つからないかというと、「ここの山の中にはない」と自分で思い込んでいるからです。必要な書類は「ここにはない」はずの山の中から見つかります。「ない」と心に思うと、どうもその瞬間から目にその情報が入ってこなくなるようなんです。そこにあるのに見えない、見ない。
先の年長信徒のことで考えると、彼が祈っていたのは真実で熱心な願いでした。それは間違いないのです。ところが目の前に青年がいてもその人を青年だとは認識しない。何故ならその人が、自分の思っている青年像と違っているからです。積極的に教会に参加して、自分から奉仕まで申し出て、教会の将来を託されても動じないほど芯の強い「若い人が集いますように」という祈りだったのだと思います。そういう行為を非難するとかそういう次元ではなく、こういったすれ違い現象は実はたくさんあるのだと思う。そして教会ではとても「あるある」な話しだと想像するのです。
ダマスコで劇的な回心を経験したサウロは、その地の信徒たちと共に大胆にイエスのことを宣教していました。それがいわば目障りなほどになって、同胞ユダヤ人たちから命を狙われるようになったのでした。同胞ユダヤ人にとってサウロは裏切り者以外の何ものでもないのです。そこで、サウロの弟子たち──もう彼には弟子がいたのです。それほどダマスコでの活躍はめざましかったということでしょう──はサウロを籠に乗せて城壁伝いに吊りおろし脱出させたのでした。そしてその足でバルナバと共にエルサレムに進んだのです。
そうして弟子たちに会いにいった。一方でエルサレム教会にとっても切実な願いがありました。教会が世界中に広まってゆく中で福音を宣べ伝える働き手が圧倒的に不足していたのです。そこにサウロがやって来た。そんなタイミングです。その時のことが今日の使徒言行録に書かれてあることです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」。
教会が願っていた事柄とサウロとはあまりに彼らの思いからすればかけ離れすぎていたのでしょう。自分たちの思いどおりの働き手ではなかったから戸惑った。サウロがかつてエルサレムで何をしていたのかを知っている弟子たちにとって、彼を簡単に信用出来なかったのは無理もありません。二重スパイと疑われてもしかたない状況です。つい先日まで敵だったサウロに、自分たちと同じ働きを神が託されたなどとは、にわかには信じがたい。
しかし神は、あらゆる方法で福音を世界に広げられるのです。その選択はわたしたちの知恵を遙かに超えている。あらゆる人をあらゆる思いを、場合によっては道ばたの石ころだって用いられる。出来る自信がある者も、そんな自信の欠片もない者も、信仰深い者も、ひょっとしたら「神なんて関係ない」と思っている者の手でさえも、用いようと神が決心なされば用いられる。そうやって神の御心はこの世に広がってきたのだし、これからも広がってゆくのです。問題は、わたしの思いとたとえかけ離れていたとしても、それを神の御心だと信じることが出来るのかどうかでしょう。
残念ながら人間の世界ではそれは成功していない。だから争いが止むことはないのです。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)。これは和解のプロセスを共に歩め、という神さまの御心なのでしょう。わたしの思いではなく神さまの御心が成るように。天の上のように地の上でも。わたしたちにはそういう歩みが委ねられているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。平和聖日に、あなたの言葉をわたしたちに満たしてください。主が教えられた祈りの通り、神さま、あなたの御心が天上のように地上でも行われる、そのための和解のプロセスを共に歩む者としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。