エレミヤ7:1−7/使徒19:11−20/マタイ7:15−29/詩編119:105−112
「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」
(使徒19:20)
今日お読みいただいた使徒言行録にはおもしろい話が載っていましたね。もともとはエフェソでパウロが2年に亘って伝道して、結果として多くの人──「ユダヤ人であれギリシア人であれ」(19:10)が「主の言葉を聞くことになった」(同)という話しです。パウロの伝道の成果が強調されているわけで、その強調の一環として今日のお話が組み込まれたのではないかと思います。「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行く」(同12)とはずいぶん尾ひれの付いた話しなのではないかと勘ぐります。そして、そういうパウロを真似ようとした人たちがあちこちにいたのでしょう。特に魔術師や祈祷師など、パウロによって自分の生業が脅かされたと感じた人も多かったでしょうし、そういう人の中には「パウロが宣べ伝えているイエスによって」(同13)といういわば禁じ手を使ってしまった人たちもいたのでしょう。
福音書のマルコとルカだけに収録されているイエスの言葉と行いにこういうものがあります。マルコでは9章38節からの箇所です。「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」」(9:38−41)。使徒言行録の著者でもあるルカ版では同じく9章49節から「そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」」(9:49−50)。ルカはマルコ版を編集し直して事柄の報告だけに留めていますが、マルコは単なる敵味方の話ではなく、迫害のさなかの教会でそれでも世界には神に従う者がいる、たとえ直接的ではなく間接的であったとしても、そういう者たちによって教会は支えられているのだという教会への励ましの物語を書いています。いずれにせよ、イエスや弟子たちの真似をする者たちを筆者らは咎めてはいないのです。
ところが同じ筆者であるルカが今日の使徒言行録では「悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」(使徒言行録19:16)という結末を記しているわけで、この違いは一体なんだろうと考えさせられるのです。
パウロが奇跡を行っているのではなく、神がパウロの手をもって奇跡を行っていたのです。しかしそれが見えない者にとっては、パウロの所持している「手ぬぐいや前掛け」(19:12)と同じようにパウロの語る「イエス」という名前もまた所持出来る類のものだと勘違いしてしまったのでしょう。だからまるで所持した商品のように「イエスの名」を唱えたのです。ところが当の悪霊たちは、いや悪霊だからこそ、イエスの名はその名を信じる者との関係によって初めて力を持つことをよく知っていました。だから「いったいお前たちは何者だ。」(同15)と逆に彼らに迫ったのでしょう。神は、信じる者との間に結ばれた関係によって初めて、信じる者の手を用いて力ある業を行うのです。悪霊はそれを知っていたから、名前を唱えるだけの者を恐れはしなかったのでしょう。
この出来事はますます「イエスの名」を広めることになりました。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。」(同18)と使徒言行録は記しています。おそらくここでの「悪行」は直接的には魔術のことを指すのでしょう。しかし、回心はすべての人に起こり得るものです。恵みであれ富であれ、なんであれ所持し独占したいと思ってしまうのはわたしたちだって同じでしょう。それだけでなく、自分が称賛を得るためには「神」を利用しようとさえ思ってしまうものです。そういうわたしにも悪霊の語る言葉が響きます。「いったいお前は何者だ。」。わたしたちもまた復活の主との関係を回復する必要があるのかも知れません。日々新たにされようと心から求めるとき、わたしたちも回復される。回心を本当に経験するのでしょう。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」(同20)。主の助けを祈り求めたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたに従う今朝の決意を、わたしたちのまことの回心とさせてください。「いったいお前たちは何者だ。」という声に、誠実に応えることが出来る歩みを進めてゆきたいと願います。どうぞ支え導いてください。わたしたちの悔い改めを受け入れてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。