歴代下6:12−21/Ⅰテモテ2:1−8/マタイ7:1−14/詩編143:1−6
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(Ⅰテモテ2:1)
「テモテへの手紙」は、その次のテトスへの手紙の3つをひとまとめにして「牧会書簡」と呼ばれます。そのままキリスト教の専門用語ですが、簡単に言えば「教会の組織化や信徒の導き方への関心」が書かれた手紙であるという意味です。
となると、この手紙の内容はつまり、ある程度「教会」という組織が出来ている前提があります。しかしわたしたちがよく知るあのパウロは、何もないところから、あるいはユダヤ教徒による「神の名」による迫害のさなかで、とにかくキリストの出来事を伝え歩き、小さな「家の教会」を各地につくったわけで、それらがしっかりした組織になるにはまだ少し時間が後のことだろうと考えられます。だからこれらの牧会書簡はパウロ以後の人たちによって書かれたものだというふうに考えられています。それでも、パウロでなければ書かないような内容が綴られていることから、わたしたちにはもはや手にすることが出来ない何か覚え書きのようなパウロの思想を直に伝えるものが著者のそばにあったことが考えられたりもしています。
この手紙はテモテに、エフェソの教会に留まって誤った教えを説いている異端者たちから教会を守るようにと命じています。「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。」(1:3)。この「誤った教え」の中味は「律法を守らなければ救われない」という考えだったようです。律法は誤った者たちが立ち帰るためには大切な道しるべだけれども、正しい人には必要ないのです。その証しとしてパウロは、自分の辿ってきた道を振り返り「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(1:15)と証言しているのです。
エフェソの教会は今そういう状態にあったわけで、その中でテモテ、あるいは教会の長老や執事として立つ者たちにどういう態度で臨めばよいかをアドヴァイスしているのがこの手紙、そして今日お読みいただいた箇所です。お読みいただいた箇所には「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(2:1)と書かれています。大事なのはこれが「第一」の「勧め」ということでしょう。
ところが、読み進めればわかりますが、「第一」はありますが、それに続く「第二」「第三」といった勧めは書かれていません。第一しかないのです。つまり、この勧めは優先順位のあるものなのではなく、唯一の、あるいは最高の勧めということなのでしょう。それが「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」という勧めです。
ルターは「小教理問答書」という本の中で、「神を信じること」についてこう書いてあります。
「神が私を、すべてのものとともに造ったことを私は信じる。神が私に、体と魂、目と耳と両手両足、理性とすべての感覚を与えてくれたことと、今も保ってくれていることを私は信じる。さらに神は、衣服と靴、食物と飲み物、家と屋敷、妻と子、田畑と家畜とすべての財産とを、体と生活のために必要なすべてのものとともに、毎日豊かに与え、あらゆる危害から保護し、またすべての悪から守り、防衛してくれることを信じる。そして、これらすべては、まったく、私の功績や値打ちによるのではなく、純粋に父としての神の慈悲と憐れみによる。」(ルター「小教理問答書」1529年)。
ここで「衣服と靴、食物と飲み物、家と屋敷、妻と子、田畑と家畜とすべての財産とを、体と生活のために必要なすべてのものとともに、毎日豊かに与え、あらゆる危害から保護し、またすべての悪から守り、防衛してくれることを信じる。」と宣べていることに衝撃を受けました。神がわたしに命を、しかも毎日与えてくださることへの感謝はわたしにもあります。でもわたしの持ち物、「体と生活のために必要なすべてのもの」、財産に関わることもまた神さまが与えてくださったと信じる、という態度に驚いたのです。なんとなくわたしは所有することが悪いことのように感じてきた。そのくせ人一倍所有欲が強かったのです。だから自分の所有欲を単純に肯定することが出来なかったし、気が引けていたのです。ところがルターはいともあっさりこのように言う。衝撃でした。
そして、考えてみれば確かにこれらすべて、つまりわたしに関わるあらゆることは確かに神さまが与え、そして保っていてくださっているに違いないのだと知らされます。与えられているということに対する本当の感謝がないから、わたしはそれを目の色を変えてまで所有しようとするだけで、分かち合おうという気持ちが起きないのだと知らされたのです。わたしに関わるあらゆることがすべて、与えられたものであると心から信じるなら、その与えられたものをどうすれば最も相応しいことになるのか、自ずと見えてくるのでしょう。
テモテへの手紙は教会に仕えるためにどうすればよいかを指示していると言いました。その第一の、完全な勧めが「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」であると。これはテモテに宛てた手紙であると同時に、わたしに与えられた手紙でもありました。わたしが願うべきこと、祈るべきこと、感謝するべきことが何であるのか、そのことを気づかせてくれたのです。そして考えれば考えるほどに、確かにこのことこそ完全な勧めなのだと知らされるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。すべてのものはあなたからいただいたものであり、またあなたから預かったものです。あなたはそれを用いて隣人の間で生きて行けとお命じになっています。先ずそのことに全幅の信頼を置き、感謝することを教えて下さい。すべては感謝から始まることをあなたが命じられていることを知らしめて下さい。そして、あなたからの預かり物をどう用いて行けばよいか、必要な知恵をわたしたちに授けて下さい。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。