エレミヤ10:1−10/エフェソ4:1−16/ルカ24:44−53/詩編93:1−5
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:52−53)
復活したイエスのその後について書いてあるのはマタイ福音書とヨハネ福音書、そしてルカの書いた1冊目と2冊目、つまりルカ福音書と使徒言行録の冒頭です。
マルコ福音書は「復活」という言葉を聞いて恐ろしくなり誰にも何もしゃべらなかった女性たちのことで本来の福音書を終えています。
マタイ福音書は有名な世界宣教命令「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)と命じるイエスの言葉とその命令を受ける弟子たちの姿だけです。
ヨハネ福音書で復活のイエスはマリアに現れ、弟子たちに現れ、その時留守にしていたトマスに会うためにまた現れ、それで一旦終わった上でさらにガリラヤ湖畔でイエスが焼き魚定食を用意して待っていてくれる話しを添えてペトロの名誉を回復してくださいました。
ところがルカ福音書とそれに続く使徒言行録だけは、復活のイエスが40日もの間弟子たちと一緒にいてくださったと書いているのです。弟子たちは最初イエスの亡霊が現れたと思って狼狽えたりするわけですが、最後にはイエスが天に昇るのを見届けて「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」というのです。使徒言行録ではさらに「使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」(使徒1:6)なんていう迷走ぶりも書きながら、イエスが天に昇るまさにその時には聖霊がくだる約束を与えてくださったとも記しています。
そしてこのルカ版を採用して今年でいえば5月13日が「主の昇天日」と定められたわけです。復活から数えてちょうど40日目、当然ですが必ず木曜日です。
40という数字は聖書に時々登場します。神話時代のノアが洪水に見舞われるのは40日間でした。エジプトから脱出したイスラエルはヤハウェを信頼しなかったために40年間荒れ野を放浪します。そのモーセは40日間シナイ山に留まり、十戒の石の板を神さまから与えられます。ダビデ王の治世は40年でした。ソロモン王も治世40年とされています。イエスが荒野で断食したのは40日でした。
40年は人間にとっての一世代であると聖書は考えているようです。だからヤハウェを疑った民は誰一人約束の地に入れないということを「40年の放浪」と記したのでしょうし、ダビデやソロモンの治世がちょうど40年だったかどうかはわからないけど、それぞれ世代を全うしたという意味も込められているかも知れません。
そこから40日という日数も、ある意味完全な、あるいは十分な日数という意味があるようです。イエスの断食も40日40夜であれば、正常な感覚を失って悪魔の幻を見たのも頷けます。
この40日という数字が、復活のイエスと弟子たちとが過ごした日時とされているわけです。十分な日数をかけてイエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い」(ルカ24:45)たのだということがわかります。
それが弟子たちにとっても十分な日数だったということを推察させる言葉が「大喜びでエルサレムに帰り」(同52)という言葉なのではないかとわたしは思います。というのも、仕事柄たくさんの人を天に送ってきて、だいたいご遺族はご遺体が火葬され目の前から消えてしまうという時にいちばんの悲しみが押し寄せることをこの目で見てきたからです。たとえ死体であったとしても、現物としての体がそこにあるのとないのとでは感覚に大きな違いがある。愛する者の体が火で焼かれてしまうというその瞬間、悲しみが押し寄せるのでしょう。
バッハが作曲した「昇天祭オラトリオ」の中にこんな歌詞があります。「あぁイェスよ、あなたとの別れがもう近いのですか。あぁ、もうその時なのでしょうか。」「あぁ、留まってください、わたしの最愛の命よ。あなたのと早すぎる別れは、わたしにこの上ない苦悩をもたらします。」。おそらくそういう心境の方が理解できます。ところが弟子たちは、イエスがせっかく復活して自分たちと一緒に生き、教え、諭してくれたのに、そのイエスが天に昇り見えなくなってしまう、もう手の触れるところにはいなくなるというこの時に、「大喜び」しているのです。喜ぶことが出来たと言うことでしょう。それは40日がどういう日々であったのかを十分に物語っているのだと思います。
それだけでなく、彼らは約束も受け取ったのでした。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(同49)この言葉は、彼らに喜びを与えるには十分だったのです。
わたしたちも、弟子たちと一緒にその約束を待ちのぞむ日々をこうして送っています。わたしたちにも、本当の喜びが与えられるのです。もう悲しみに目を曇らせなくても良い、苦しみの日々を終えて良い、安心して良いのだ、とイエスは、十分な日々と時間をかけて、わたしたちに諭してくださっているのです。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたはわたしたちの恐れや苦しみに目を留め、弟子たちが戸を閉ざしていた真ん中に立ち、40日の間教え諭し導いてくださったようにわたしたちを愛おしんでくださいます。わたしたちはあなたのその執り成しによって始めて、「安心して良いのだ」と覚ることができます。喜びで満たされることができます。感謝いたします。このわたしの上にも、高いところからの力が降り、その力に覆われていることを覚えることができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。