復活節第5主日 主題「父への道」
サムエル下1:17−27/Ⅰヨハネ2:1−11/ヨハネ14:1−11/詩編98:1−9
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:4)
新しい街に住むと、周辺をいろいろと巡って歩きます。この道には何があるのか、この道はどこに繋がっているのか、歩き回ることはとても楽しいことです。
教会の周辺には江戸時代から名付けられて親しまれてきた坂道がいっぱいあって、その名前の由来などを読みながら歩くと楽しさは倍増します。もともと雑学的なことにはとても興味ひかれる性格なので、ちょとしたトリヴィア収集マニアでもあります。尤もトリヴィアといえば聞こえは良いけど、要するにくだらないこと、瑣末なことでしかありません。
それでも、この道があそこに通じているとわかったときは、とても嬉しい気持ちになります。だいたいは勘で行動するのですが、その勘が当たったのが嬉しいわけです。あるいは勘が外れて思いがけないところに出たりする。そんな小さなオドロキもまた楽しいモノです。四谷の住人になって2ヶ月になろうとしていますが、まだまだ楽しませてもらえそうです。
ところで、わたしにとって「道を知っている」というのはなんだかとっても優越感をもたらしてくれることなのですが、これがいわゆる地理的な「道」ではなく例えば「人生の道」となったらどうだろうと考えます。使い古された言葉ですが今は「価値観の多様化」の中にあって、大昔のように「人生の価値はこれこれ」というたったひとつのことにすべての人が同意する時代ではなくなりました。キリスト教にとってもそれは同じです。
先日農村伝道神学校の授業の中で「信仰とは」という命題を考えました。この命題に対してマルチン・ルターはこういうふうに言いました。「約束をする神の言葉があるところには必ず、それらの約束を受け入れる人間の信仰がある。」(「教会のバビロン捕囚」1520年)。逸れることのない人生観として確信し続けることが信仰だというわけです。他に逸れることがないただ一つの道が信仰だと言い切るのは、ルターが置かれた時代を考えれば確かにそうでしょう。彼はこの書物で教会が行ってきた7つの秘蹟の内の5つを否定しているのです。その結果カトリック教会を破門されるわけですが、破門という一大事を賭けてでもただ一つの道を揺らぐことなく歩もうとしている。ある意味うらやましい時代でもあります。
翻って現代は多様な価値観にあふれています。すべての人が納得し、すべての人が揃って歩み始めるようなたったひとつの価値なんて、ないどころかむしろアブナイ、アヤシイと思われる時代です。では選択肢が広がって人々は幸せになったかと言えば、逆に道を見出せないで右往左往している。今はそんな時代でしょう。そしてそれに輪をかけるかのようにコロナの暗雲が漂っている。
何事に至っても、決定的な打開策ひとつ見出せない。コロナにしたって、多発する自然災害にしたって、すべてが待ったなしだという状況理解は共通していても、何一つ手を打てない。そんな時代です。一体わたしたちはどの道を、どこへ行こうとしているのでしょうか。
イエスは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14:4)と言います。トマスは困惑してこう答えます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(同5)。このトマスの答えは、価値観が多様化して自分の進むべき道さえ見出しにくくなった今現在のわたしの思いそのままです。ところが、それに対するイエスの答えはこうでした。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(聖書新改訳2017、同6)。
わたしたちには既に道が示されているではないか、とイエスは言っているのです。どの道でしょう。イエスその人が道なのだ、と言うのです。彼が道であるということは、わたしたちもその道を歩けと言われているということでしょう。イエスを踏んで歩め、と。イエスが敷かれた道とは、イエスの生涯の歩みそのもの。その道を踏みしめて歩めということは、イエスが歩まれたようにあなたも歩みなさい、と招かれているということでしょう。そのとてつもない目当て、イエスが歩まれたように歩むという、そのとてつもない目当てに向かって、今、このわたしが、小さな一歩を踏み出すかどうか。問われているのはそのことなのだと思います。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたに従う決意をしたときのことを思い起こさせてください。それはとても浅はかでしたが、しかしあなたに従いたいという願いは真実でした。今再び、あなたを道として、あなたを踏みしめて、一歩踏み出します。どうぞわたしたちの歩みを支え、祝福を持って受け入れてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。