復活節第3主日 主題「新しい命」 2021年4月18日
「どんなしるしが欲しい?」
列王上17:17−24/コロサイ3:1−11/マタイ12:38−42/詩編116:1−14
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39)
先週説教の最後に「わたしたちは主イエスの復活に、何を期待するのでしょう。その期待は本当に神と関係があるのでしょうか。」と言いました。わたしたちは神さまに期待しています。神さまが願いを叶えてくださる期待をかけています。でも、神さまはわたしの願ったとおりの結果をもたらしてはくれません。悩ましいところです。イエスの復活だって、醒めた目で考えてみればそうです。わたしたちがその出来事にどんな期待を持っているのかで、意味合いはずいぶんと違ってくる。案外わたしたちはホンモノの神さま以上に「神」になっちゃっていますね。
旧約聖書にエリヤという預言者がいます。この人は北イスラエルの王アハブがシドン人の妻イゼベルの崇拝するバアル・アシェラの偶像崇拝を徹底的に批判した人で、そのため王から命を狙われます。3年の間雨が降らず、北イスラエルは凶作に悩まされますが、エリヤはケリテ川のほとりでカラスに養われます。その川の水も干上がるとシドンのサレプタに導かれ、そこに住むひとりのやもめによって養われるのです。やもめにはひとり息子がいて、最後の油と最後の麦粉でパンを作り、それをためたらもう死を待つしかないという極限状態の親子でした。その母にむかってエリヤは「まずその粉でわたしのためにパンを作れ」と言うのです。かなり図々しい!ところがこの家にいる間どういうわけか瓶の油も壺の中の粉も尽きることがなかったというのです。彼女は驚いたでしょうね。次第にエリヤを尊敬し始めたかも知れません。
ところがこのやもめのひとり息子が病気になって死んでしまう。不思議な力を持ったエリヤを信じ始めていたやもめの思いは一変します。「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王上17:18)。エリヤは主に祈り、子どもの上に三度身を重ねると、その子は息を吹き返します。するとやもめはこう言います。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(同24)。
このやもめのわかりやすい変化はどうでしょう。粉も油も最後だった。だからそれを食べて死を待とうと思ったのに、それでまずわたしのために、と図々しいことを言うエリヤ。ところが渋々言うとおりにしたら粉も油もなくならなかった。彼がいてくれさえすれば食べるのに困らないとなれば、そりゃおもてなしも変わります。ところがひとり息子が死ぬと、それはエリヤのせいだと言い出す。そしてエリヤが祈って息子が息を吹き返せば「今わかった、あなたはまことに神の人だ」と。手のひらが何度もひっくり返るのです。でも嗤えません。わたしも同じ。
このやもめは、「粉も油もなくならない」というわかりやすいしるしを何度も見ていました。しるしが見えている間は心配一つしなかった。ところが息子が死ぬと何も見えなくなった。それまで見えていたものも見えなくなる。わたしたちもそういう経験をしてきたでしょう。わたしたちだって明確なしるしがいつでも欲しいのです。小さな欠片ほども疑う必要がないほどに完璧な、誰からも揶揄されたり指摘されたりしないで済むような、これを見さえすれば誰だって平伏すに違いないような、そんなしるしが欲しいのです
ところがイエスは、この点に関して実につれない。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39)。人間の観点で欲しがるようなしるしなど何も与えられない、と言うのです。そうではなく、ただ「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」のです。それは「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(同40)というしるしです。これを聞いた人たち、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」(同38)は、何を思ったでしょう。さっぱり意味がわからなかったかも知れません。では、イエスの復活を知っているわたしたちは、このイエスの言葉をそのまま受け入れるでしょうか。いや、やはり、わたしの求める形で示されない限り、それはしるしだとは受け止められないのです。
しかし、そこに十分なしるしを見出す者は、イエスと共に新しいいのちを生きる者とされ、御自分の命を最期まで弱い者小さくされている者と共に歩まれた、あのイエスの後を慕い追う者として必ずどこかで用いられる、そのように神さまがご計画なさっているのです。
そのイエスの招きに、わたしたちは喜んで応えられるでしょうか。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたの歩みに、あなたの生き様に従う者として招かれていることを、畏れを持って受け止めます。わたしたちが捧げることのできるそれぞれの賜物を、あなたの御用に用いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。