復活節第2主日 復活顕現 2021年4月11日
「復活に、何を期待する?」
イザヤ65:17−25/使徒13:26−31/マタイ28:11−15/詩編16:5−11
「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(マタイ28:15)
聖書には、普通に読んでみただけでは分かりにくい箇所がいくつもあります。
たとえば旧約聖書のイザヤ書65章にこんな言葉があります。「そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを
植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。」(65:20-22)。いやいや「百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる」なんて言われたら、確かに今この国で100歳を超える人は2020年9月1日時点で初めて8万人を突破して8万450人となったそうですが、その他大勢は「呪われた者とされ」ちゃいますか。
「彼らは家を建てて住み」とか「彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。」とか、当たり前すぎます。
でも、70年にも及ぶ他国での捕虜生活を終えて、故郷に帰ろうとした人々を迎え撃つ虚脱感、約束の地は荒れ果てて、自分の土地によその国の人が家を建て、畑を耕作し、その実りを享受しているのを見て、絶望感に苛まれている人たちに神が語
りかける慰めの言葉だと知れば、この当たり前すぎる言葉の意味がようやくわかりますよね。
つまり、聖書のことばというのは確かに「古今の名言」みたくカレンダーにまとめられてトイレに吊され、毎日それを眺めても良いものではあるけれど、やはり特定の時代に特定の人に語られてこそ力ある言葉なんですよね。だからわたしたち
も、普遍的な名言としてではなく、どういう時代にどういう人たちに語られた言葉なのかに少しだけ注意を払って聖書のことばに触れてみたいと思うのです。
そう考えると、今日の福音書は面白いですね。先週、寝付きが悪くて溜まらなかった祭司長や律法学者たちの方が「三日目に復活する」というイエスの言葉を良く覚えていた話をしましたが、その通りになってしまって、彼らが必死に善後策を
練っているという箇所です。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13)とは、なかなかの妙案です。そして「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」のだから、その策は成功したのです。それで問題なし。ヤレヤレ、という心境でしょう。
なぜそんな策が成功したのか。それは、イエスさまが決して十字架のリベンジとして復活したのではないからです。むしろポンテ・オ・ピラトや律法学者たち、祭司長たちの目の前に現れてくださったら、「十字架の勝利!」と胸を張れる。キリ
スト教が世界を席巻し、十字架の旗の下に世界が統一される。そんなことも出来たかもしれません。でもイエスの復活はそうではなかったのです。だから「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」そして、神にとってそれで良
い、ということでしょう。
「彼らは家を建てて住み」とか「彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。」とか、当たり前すぎることが、帰還したイスラエルの人たちの希望だった。ダビデ王朝が甦り、ただ甦るだけでなく、世界最強の帝国になることが彼らの希望ではなかったのです。そんなこと何の関係もなかったのですね。そうではなく「彼らは家を建てて住み」「彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。」当たり前すぎる暮らしこそが願いだった。
では、わたしたちは主イエスの復活に、何を期待するのでしょう。その期待は本当に神と関係があるのでしょうか。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたは人と人とのいがみ合いを超えて恐怖と争いを克服するために復活なさいました。その招きにわたしたちも与っています。
わたしたちも、その喜びを告げる者となりますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。