復活日 キリストの復活 2021年4月4日
「ガリラヤへ、いのちの場へ」
エゼキエル36:16−28/ローマ6:3−11/マタイ28:1−10/詩編66:1−9
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:10)
良く「激動の日々」などと使いますが、イエスとその弟子たちにとってしゅろの主日からの1週間は文字通り激動の日々でした。
マタイ福音書はマルコ福音書をベースにしながら、イエスの教えを説教集としてまとめて編集し直した福音書を書きました。先週のしゅろの主日はマタイ福音書では21章です。ずいぶん前なんですよね。そこから宮清めの事件があって、イエスのいわゆる5大説教の最後「来るべき神の国の教え」もしくは「神の御支配の到来」が24章1節から25章46節までに納められています。中には有名なタラントのたとえが入っています。そして26章でイエスは地上でのすべての準備を終えられます。
香油を塗られたり、最後の晩餐が行われたりするのです。そして27章になって裁判と十字架での処刑があって、確かにイエスは墓に納められたのです。わたしたちは福音書を読み進めながら、イエスが十字架で殺されたこと、確かに息を引き取ったこと、そして墓に納められたことの目撃者になったのです。
さて、世間を騒がせたイエスという名の男の物語はこれで終わるはずでした。イエスを慕っていた弟子たちは既にイエスのもとから逃げ去って、その最期を見届けたのは女性たち、その多くはガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々で、その功績は大きかったけれど、世間的には何の力もない人たちでした。唯一十字架のそばですべての出来事を目撃していたローマの百人隊長がイエスの死にあたって「「本当に、この人は神の子だった」と言った」(27:54)のでした。しかしそれだって過去形での告白です。終わったのです。すべてが終わったのです。
ところが、その後を心配していた者たちがいました。それは弟子たちや婦人たちではなくイエスをまんまと十字架につけて抹殺した祭司長たちとファリサイ派の人たちでした。この人たちは驚くべき事に「あの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。」(27:63)と言うのです。弟子たちでさえイエスのその発言をまともには受け止めていなかったであろうのに、イエスに敵対していた者たちは確かに覚えていたのです。不思議です。彼らには胸騒ぎがあったのでしょう。なんだかシェークスピアのマクベスみたいな状態ですね。「マクベスは眠りを殺した」「まだ血の臭いが、ここに」。
しかし、イエスは人間の期待やその反動である落胆に些かも遮られたりはしません。人を罪から解放するためには、たとえ自分を十字架につけ、嘲ったり罵ったりした者であったとしても、あるいは自分を見捨てて逃げ去った者であったとして
も、あるいは自分を否み、裏切った者であったとしても、その者のために復活するのです。彼らが十字架のイエスと共に死に、復活のイエスと共に生きるためです。
わたしは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(28:4)番兵たちと何にも変わりません。復活の主のすべてのことを知ってはいないからです。それどころか、わたしこそ主を十字架につけ、嘲ったり罵ったりした者、主を見捨てて逃げ去った者、主を否み、裏切ったその者なのです。祭司長たちやファリサイ派の人たちが夢見が悪いように、わたしだって自分の罪を数え上げたら、夢見が悪くもなりましょう。復活の主に出会ったら「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のように」なってしまうに違いありません。
でも、そういうわたしのために主は復活なさった。わたしが優秀で力があって、信仰も誰より深く高潔だったからではありません。全くその逆なのにもかかわらず、主はわたしのために復活なさったのです。どうして? それはわたしをガリラ
ヤに誘うためです。
「ガリラヤで会う」という言葉は婦人たちに復活を知らせた天使たちが教えてくれたこと、そして復活の主ご自身も教えてくれたことでした。ガリラヤはイエスの最期を十字架のもとで見守った婦人たちの出身地でもあり、多くの弟子たちの出身地で、しかも彼らが弟子として召され、弟子として働いた場所でした。その場所に、イエスが先立って行かれ、わたしを招いているのです。
わたしたちはわたしのいのちの場で復活の主に出会うのです。どこか他所で、着飾ったハレの日にハレの場所で、ではなく、七面倒くさい人間関係でうみ疲れ、隠しようのない自分の素の姿が晒されている場所で、復活の主に出会うのです。高潔ゆえに主が招いてくれたのではないからです。弱いわたし罪を重ねるわたしのためにイエスが復活なさったという事実がわたしを立たせて下さるからです。
さぁ、ガリラヤへ、いのちの場へ、わたしたちは復活の主に出会うために、今、この場所から出かけましょう。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。わたしのために復活なさったイエスさまを賛美します。あなたがわたしより先にわたしのいのちの場におられるから、わたしたちは今わたしのいのちの場へと出かけます。あなたが共にいてくださるゆえに、そこで出会うすべての人に、すべてのことに、赦しの事実をもって臨むことが出来ます。そのようにしてわたしを御国のために用いてください。復活の主イエス・キリストの御名によってことの神さまに祈ります。アーメン。