2021年3月21日 受難節第五主日 四谷新生教会礼拝
説教「下降する栄光」
マタイ20:20-28
自分が大切だと思うことを一所懸命に人に伝えた時、その人がまったくわかってくれなかったらショックです。ヨハネ福音書の6章の「わたしがいのちのパンである」という個所から熱弁をふるって説教した時、ある人が珍しく説教への感想を言いに来てくれて、嬉しいなと思ったら、「そのパンはどこの店で売っているのですか」と真顔で聞かれて、ガクっときたことがありました。
しかしイエス様ほど、わかってもらえなかった人、誤解された人は他にないのではないかと思います。イエス様は、エルサレムに上っていく途中、これから自分の身にどのようなことが起こるかを弟子たちに話されました。自分の先に侮辱と死が待っている、だけど自分はそこへ向かっていく、と。この覚悟を弟子たちに話されたのはこれが三回目でした。三回も同じことを言えば、鈍い弟子たちもイエス様の胸のうちにあることを少しわかってくるのではないか、とも思うのですが、そうではありませんでした。まったくわかっていないことが露呈してしまいます。
ゼベダイの息子たち、つまりヤコブとヨハネという兄弟の母親がイエス様に頼み事をしに出てきます。いい大人のことなのに、母親が出てきました。これは我々の社会ではありそうなことですが、しかし、ヤコブとヨハネのお母さんというのは、信仰のことがわからない俗っぽい人というわけではないのです。彼女はイエス様の伝道にお供していた人だったと考えられています。(別の箇所でサロメという名で紹介されている人ではないかともいわれます。)イエス様が十字架にかかった時、近づけるぎりぎりのところまでいって最後まで見守っていた女性たちの中に「ゼベダイの子らの母がいた」と27章にあります。イエス様に対する態度だって、「ひれ伏し」て願うという丁寧なものです。わけもわからず、無理なことを言う「モンスターペアレント」ではないのです。
そういう女性が、「イエス様、あなたがイスラエルで権力を掌握して、王座におつきになった時には、この二人を左大臣、右大臣として重用してくださいね。とても優秀な子たちですから」と、なんともえげつないことを願うのですね。イエス様は心底がっかりしたんじゃないでしょうか。向かう矢印の向きがまったく逆なのです。
マルコ福音書では、ヤコブとヨハネが直接イエス様に願いに来たと書かれています。マタイ福音書が、母親が願ったと書いているのは、ヤコブとヨハネの醜悪さを多少なりとも緩和するためではないか、と見る聖書学者もいます。でも、母親が息子たちの願いを代弁したというのも相当にリアリティがあることだなあと思います。
これはちょっと皮肉なことですが、ヤコブとヨハネといえば、イエス様がガリラヤ湖畔で彼らに「わたしについて来なさい」と召された時、この二人はすぐに舟と「父親」を残してイエスに従ったわけです。すごいことです。今までの自分たちの生活の枠組み、継承してきたもの、「父」のもとをあとにして、何も持たず、裸一貫でイエス様に従ったのです。ところが自分自身も主イエスに従ってきていた「母」のほうは、彼らの立身出世という人間的な野心を後押しする形で出てくる・・・。
「父を後にした」という、彼らの純粋な献身という一面があると同時に、自分たちの頼みを「母」に代弁してもらうという、この世的な力や地位への執着という面がある。これが人間なんですね。捨てた面と捨てられない面が同じ人間の中に混在しているのです。
その昔、20代前半の私が牧師になろうと決心して神学校へ入る準備をしている時、とてもす
がすがしい気持ちで、単純に考えたものです。「ああ、自分は福音に仕える者になるのだから、これで立身出世とか人との競争に勝つとかいうことからは自由に生きていけるのだな。偉くなるとか金持ちになるとかそういう邪念なく、純粋な心で働けるのだな。嬉しいな」と。しかし、それは甘かったですね。牧師だって他の職業の人と同じように、認められたくて、人の称賛が欲しくて、人と比べて教会が大きくなれば威張り、小さければひがみ、人が業績をあげれば嫉妬を覚え、自分の持つ権限が大きくなればそれとなくそのことを誇ったりする。そういう気持ちと無関係というわけにはいかないのです。こういうことに聖域というのはありません。
国家という単位でも家庭という単位でも、そこで支配力を持つ者になりたいという欲望は同じです。そこで、命令をくだす者でいたい。使われる者より使う者になりたい。この気持ちは強いのです。
これは想像ですが、ヤコブとヨハネの二人が特に、自分たちの地位についてイエス様に願い出たというのは、もしかすると、イエス様がシモンとアンデレの兄弟を最初に弟子に招いて、その次に、彼らを弟子にしたということと関係あるかもしれません。「俺たちは順位が下だ。このままだと、シモンが一番弟子、アンデレが二番。自分たちは三番手、四番手に置かれたままじゃないか。自分たちのほうがあいつらより有能なのだから、自分たちを選んでもらいたい」。同じガリラヤ湖の漁師出身としてそんなライバル意識があったのかもしれません。
しかし、ヤコブとヨハネだけが権勢欲が異常に強かった、ということでもないのです。「ほかの10人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」そうです。「ずるいぞ!あの二人だけが抜け駆けして!しかも母親の影響力まで使って!」というわけです。つまり、他の10人も、上の地位に立ちたいという思いにおいては同じだったということです。
イエス様は、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」といわれました。イエス様が決めるものでさえない。ましてや人間の思惑で決めるものではない。ただ天の父が準備されたようになるのだ。というわけで、ヤコブとヨハネの願いは即座に却下されました。
いつも誤解される人、イエスは本当に大変でした。十字架の道をくだっていくという使命を三回も語ったところで、弟子たちから、あからさまな権力の座にのぼっていく野心をみせられる。でもイエス様は忍耐強いです。イエス様は、これほど愚かな弟子たちを相手に、匙を投げません。彼らに言います。「異邦人の間では」、つまり神を無視したこの世ではこうであるけれども、「あなたがたの間では」、つまり神さまのもとで生きる共同体においては、違う原理があるのだ。違う生き方があるのだ。と説かれます。
「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
「仕える者」はギリシア語でディアコノスです。後に教会で「執事」という職をあらわす単語になります。元の意味は「食卓で給仕をする人」です。給仕さんになりなさい、ということです。
「すべての人の僕」の「僕」はドゥーロス。奴隷のこと。家の主人のためになんでもする人のことです。当時は、給仕も奴隷の仕事だったそうです。
当時の社会においては、ディアコノス、ドゥーロスは社会階層でいえば、底辺のほうにいる存在でした。それになりたいと願う人などはいるわけはなくて、それと反対に、どれだけ多くのディアコノスやドゥーロスを自分のもとに所有できるかが、人生の成功の度合い、自分の幸福の度合いを決めることだったのです。ところがイエス様は、それを正反対にひっくり返します。
さて、イエス様は「偉くなりたいと思うこと」を肯定しているのでしょうか。否定しているのでしょうか。「偉くなるな」とは言われていません。「偉くなりたい者は」こうありなさい、と言っています。「偉くなりたいと思うこと」を肯定して、しかし「偉さ」の中身を入れ替えた、ということができるのではないでしょうか。
この世の価値観で言う「偉さ」と、神様のもとで生きるものの「偉さ」、天の国における「偉い」は違うのです。
この世の価値観で言う「偉さ」、つまり我々が普段使っている「偉い」のはかりには大きな問題があります。それはいつも「偉い」度合いが、他者との比較において、他者と上か下か、支配しているか支配されているか、で測られるからです。人の上に立ち、命令する権力を握っていれば「偉い」。人の下におかれ指示される側にいれば「偉くない」。自分自身の中に「偉い」の規準があるのではなくて、いつも人との相対的関係において比べないと測れないのです。
Facebookだったかツイッターだったかで、面白い画像を見ました。あるお寺の前に掲示されている格言です。いわく、「偉そうにしても偉くはない 馬鹿にされても馬鹿ではない」。うまいこというなと感心しました。本当にそうですよね。偉そうにしてる人が偉いわけではないことを我々はよく知っています。人に馬鹿にされている人が、実は思慮が深くて思いやりがあって光るものをもっていて、でもこの世はうまく渡れない、なんてことも知っています。
ところがわれわれの多くが、本音において何を求めているかというと、「偉そうに振る舞えるものになりたい」ということなのです。本当の意味で「偉い者」になりたいというよりは、人から見て「偉い方だ」と言われ、そう扱われる人になりたいのです。お店に行けば、いちばん良い席に、「どうぞ、どうぞ」と通される人になりたいのです。
馬鹿にはなりたくない、というよりは、馬鹿にされる立場になりたくないのです。見下される立場になりたくないのです。怒鳴られる人であるより、怒鳴る人でいたいのです。
このどちらにおいても、基準は、人からの視線や承認なのです。見える形での地位や支配力なのです。そしてこれが大きな問題だというのは、そのような偉さ追求が、人間の社会から慈しみと正義を奪っていくからです。自分と他者の尊厳をそこなって、それぞれの人間が持っているその人らしさを傷つけてしまうからです。
「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」という世界が、どのような悲しみを生み出しているか。ミャンマーで、香港で、シリアで、そしてここ日本で。
イエス様は「偉い」の中身を入れ替えたということを申し上げました。これはすごく大事なポイントになると思うのです。というのは、「仕えなさい」、「僕になりなさい」というイエス様のことばは、誰に仕えるのか、何のために仕えるのか、というところを十分明らかにして、そのめざすところを間違えないようにしないと、キリスト教的な「仕えよ」、「僕になれ」という倫理が、新たな抑圧の武器になってしまうからです。「異論をとなえるな。わきまえよ。上の者の言うことを受け入れて、滅私奉公せよ」というような文脈で、「僕になって仕えることがよいことだ」というのなら、福音が、人を解放する救いではなく、人を宗教の奴隷にするものとなってしまいます。
イエス様の最後のことばに注目しましょう。「人の子は仕えられるためでではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
身代金(リュトロン)とは何ですか。身売りされて、奴隷にされてしまっている人を買い戻すために支払うお金です。イエスはご自身を「身代金」として捧げて、奴隷にされてしまっている人を自由人として取り戻してくださったのです。これが基本中の基本です。このイエスに従うのであるから、キリスト者というのはキリスト以外の誰にも隷属しない。だって買い戻されて自由人にして頂いたのですから。しかし、このキリストの愛を証しし、このキリストの奉仕のお手伝いをすることのためなら、縛られてではなく、自ら進んで召使になって仕えることができる。それを喜びとさえすることができる。だってそれはイエス様に似た者になっていくことだから。
誰に仕えるのか。何のために仕えるのか。このことがはっきりしているところにおいて、わたしたちは、「偉くなろう」と思ってよいのです。その「偉く」は、神様の目からみての「偉く」です。イエス様が示された意味での「偉い」です。
「偉い」のギリシア語はメガスです。「メガ盛り」のメガです。神の目から見て「メガ」なこと。それは、権力や資金の大きさではないのです。どれだけたくさん持っているか、ということではないのです。そうではなく、小さな存在に対して、どれだけ誠実であり、共感し、共にあることができるか。強い者にこびへつらうことではない。強かろうが弱かろうが、同じように公平に接し、心をふれあわせ、生きる喜びを共有できるか。
イエス様は、どんどん上へと登っていき、権力によって人を足元に従わせるという仕方ではなく、どんどん下へと下っていき、人の弱いところ、傷つきやすいところに入っていき、そこで神様からの栄光をあらわしてくださいました。
わたしたちがそれに従っていけたら、わたしたちは自分自身を人との偉さ競争から自分を解放することになります。見え張りプライド競争から自由にされます。だからそれは自分自身のためでもあるのです。威張っている者のみじめさから救われるのです。
そして、自分とは異なる誰かのことを、上から見下すのでもなく、その人の言いなりになって隷属することもなく、その人の尊厳を慈しみ、その人の良いところを活かすことができるようになります。簡単にそうはなれませんが、しかし、そこに近づいていくことができます。
そんな一人一人の生き方の変化は小さなことのようですが――実際、小さいことですが――一人一人の日々の積み重ねは、小さな種が大きな木に育つように、神様の求めるシャロームへとつながっていくのです。
祈り
神さま、どうかわたしたちが、皆に仕えることによって、皆の僕になることによって、神様の目からみた「偉い」者となれますように。そしてその小さな業が、この地に平和を実現することにつながっていきますように。主の御名によって。アーメン。