「新たな歩みを」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:16-18
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16-18)
私が説教を担当させていただくのも、今回が最後となりました。
この四谷新生教会とともに歩ませて頂いたこの一年。無僕という試練だけでなく、いや、無僕というひと時は、教会の一致や成長を生むことでもありますから受け止めるとしても、新型コロナウィルスの出来事はこの教会にとって、「無僕のこのタイミングで…」と、非常に難しい出来事であったことと思います。困難な中にあって、なんとか礼拝を守り、共同体を一つに保つ。大変な重責であり重荷でありました。役員の方々、また代務者である古賀先生、そして教会に繋がるお一人お一人のご苦労とその中にあってのご尽力に想いを寄せ、感謝したいと思います。
しかし4月より新しい牧者を迎え、一つとなって新しい主の共同体のスタートを迎えます。このコロナウィルスをはじめ様々な困難の中で、自分たちの信仰を整えるとともに、この四谷の地に住む方々や、幼稚園児とその保護者の方々に仕え、主の御声を高らかに伝えてゆきたいと願います。この社会は疲れています。
だからこそ、主の御言葉を必要としています。新しい教会のスタートとともに、伝道・宣教する教会として、個々人としてもスタートしてゆきたいと願います。
この四谷新生教会の新たな歩みに際して、皆さんとともに500年前の「宗教改革」の出来事を共に分かち合いたいと思います。ペストの蔓延、国家・領主間の対立、貧富の差や貧困の拡大など、現代とも共通する混沌の社会にあって、キリスト教会のまさに「新たな歩み」である宗教改革を、自分たちの教会に、自分たち一人一人の信仰の中にその息吹を感じてゆきましょう。
1517年、ドイツのヴィッテンベルク大学のチャペルから始まった、ルターによる宗教改革から504年を迎えました。宗教改革500周年と言っていたのがもう4年前です。
この宗教改革という出来事。これを500年前の「歴史の出来事」としてしまってはならないのでしょう。私たちの教会と個々人にとって、今も続く出来事。500年前から始まり、今も続く出来事としてゆきたい。四谷新生教会の新しいスタートにあって、私たちは改革(変化)されつくした教会ではなく、改革しつつある教会として歩みたい。教会を、信仰を日々新たにする改革の出来事を、歴史の出来事とした時から、私たちは私たちの教会は新たにされることを忘れてしまうことでしょう。歴史の出来事にしない。生きた歩みとしてゆく必要があるのでしょう。
教会として、500年前の宗教改革の出来事を過去のものにしてはいけない。と分かち合いました。しかしそれ以上に、私たち一人一人が、個人が、宗教改革の出来事を過去の出来事としてしまってはならないのでしょう。なぜなら、宗教改革とは、教会の改革であったとともに、個人的な信仰改革でもあったからです。
それは、その原動力は「悔い改め」です。
宗教改革者であるルターは、教会に対して「変わること」を強く強く求めました。
しかしルターはこの強いメッセージを、「怒り」で行ったのではない。
95か条の提題の第一条は、既存の教会への攻撃ではなく、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ。神の国は近づいた。」を用いての、「自らをも含めた信仰的悔い改め」でした。教職も含めた「すべてのキリスト者」を悔い改めへと促すものだった。
ルターにとって95か条の言葉と行為とは、なにより自分自身の主への悔い改めと贖罪の行為だったのです。
ルター95か条の提題
第1:我々の主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ」と言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。
第94:キリスト教徒は、我らの頭であるキリストに、死そして地獄を通ってでも懸命に従おうとすることである。
第95:したがって平安よりも、むしろ多くの苦しみを経てこそ神の国に入るのだと信じることである。
…ルターは言います。悔い改めと、どこまでも主に従う想い、そして困難こそが神の国に入るカギとなり得るのだと。
宗教改革という、大いなる教会の信仰的回復は、また爆発的な伝道・宣教への想いは、教会に繋がる全ての信仰者一人一人の「悔い改め」から始まった。
私たちもそうありたい。日本の教会の現状を顧みたとき、主への信頼と他者への愛の信仰的表現である、伝道・宣教というものに対して誠実であれなかったという悔い改めの実を結びたい。
そして課題であるその「伝道・宣教」をこそ、また私たちの「新しい希望」ともしたいのです。なぜならば、私たちの教会は、私たち信仰者一人一人が悔い改め祈るならば、自らで変わることができるという遺伝子があるから。教会も個人も、主にあって日々新たにされるという希望です。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」ルターの有名な言葉です。
ルターは、宗教改革という主の大いなるご計画の前に、「主よ、なぜ私を?私を通してなにをなされようと?」と祈り問うた。彼はその後、教師職を剝奪され追いつめられます。まさに滅亡ともいえる大いなる困難を前に、彼は主に従う道。
悔い改めの実を結ぶ木を植えたのです。
「主よ、なぜ私を?私を通してなにをなされようと?」という問いは、旧約聖書の預言者たちも、主イエスも、その後の弟子たちも、そして名もなき伝道者や信徒たちが皆、主の愛と御計画の中でこの地上に遣わされている間、常に問い続けていました。
私たちも同じです。主は私たちを通して何をなされようとされているのか。主は私たち一人一人を愛しいつくしまれ、召してくださると同時に、「私たち一人一人を通して大いなる御業をなそう」とされている。
老いも若きも。祈り求め、聞き従いたい。外なる人は衰えようとも、我々は主によって日々新たにされる群れです。一人一人、そのそれぞれの形で、主の伝道の御業のために用いてくださるのです。
ルターの言葉をもう一つ紹介させてください。「神がその人を通じて、ある偉大な行為を望むかのように、誰でもが行動するべきである。」
この混乱の社会、分断の社会にあって、もう一度一人一人、祈り求め、考えたい。
主は、この私たちを通して、この四谷新生教会を通してどのような伝道・宣教をなそうと?
宗教改革のその悔い改めと希望への歩みの出来事を今もこれからも継続してゆきたい。この地に100年先も主の福音が述べ伝えられるように。私たちの家族が子どもたちが孫たちが、この地に住む人々が、私たちの愛する方々が、愛しているからゆえに主の愛に触れ生かされる夢を描きたいのです。
私たちのこの、新たな歩みを始めようとしている教会が、日々新たにされる私たちが、主を一心に見上げ、主に導かれつつ伝道・信仰継承し、100年先も地域に愛され生き生きと主の御栄を証する、そのような希望を与えられたいと願うものです。
祈りを合わせましょう。
・祈祷
ご在天の父なる御神さま。あなたの御名を賛美いたします。
四谷新生教会の、この一年をあなたがお守りくださったことに心から感謝いたします。また、あなたの御心によって新しい牧者も与えてくださいました。私たち一同、あなたの御心と信じ、支え、ともにこの教会の新しい明日を切り開いてゆくことが許されますように。とともに、この困難な一年をお支えくださった方々にも感謝を致します。あなたの祝福と癒しがありますように。
あなたの御体なるこの四谷新生教会の歩みの上に、あなたの大いなる御恵みと御導きとを心より願います。
東日本大震災から10年を覚えるこの時、あなたの御子主イエス・キリストの御苦しみを覚えるレントの中にあって慰めを覚えます。我々の痛みと主の十字架、その出来事が強く強く繋がりますように。
主イエスキリストの御名によって祈ります。