マタイ4:1-11
教会は先週の水曜日からレント、受難節の季節を迎えました。これから7週にわたって、日曜日を除く40日のあいだ、主イエスの十字架がわたしたちひとり一人の命に歩みにおいて持つ意味を心に刻みながら歩む日々を教会は過ごします。
そのための手がかりとして今日私たちに与えられているのが、イエスがさらされた誘惑の物語です。
40日間の断食ののち、空腹を覚えた主イエスのもとに、「誘惑する者」がやってきて、イエスに「神の子なら」石に対してパンになるように命じたらどうだ、といいました。石に向かってパンになるように言うこと、それは果たして何を目的とすることなのかはわかりません。長い断食の後の自らの空腹を満たすためであるのかもしれません。そうでなければ、それは重い税金と、実りの少ない重労働にあえぐ、多くのイスラエルのためなのかもしれません。ある映画ではそんな風に描かれていました。石をパンに変えることがイエス自身の欲求を満たすものかまたは他者の空腹を満たすためであるのかは聖書を読む限りではわかりません。しかしながら、この言葉は「神の子」の働きを、石をパンにする、ということに象徴されるもの、願いや欲求を簡単に満たすもののように考えることの誘惑であるのでしょう。
たとえ人のためであれ、または自分自身のためであれ、神は願えば無尽蔵にいつでもその欲求を満たしてくれる、そのようなものとして神を考えることは、自分のために神をつくることに他なりません。「神の子」なら自分の欲求を神に押し付けることができるはず、そして「神の子」のために神はそれをかなえてくれるはず、そのように神と自分との関係を考えることです。イエスが出会った誘惑はそのようなものでした。
イエスは、それに従うことはしませんでした。すると、それに次いで「神の子なら」高いところから飛び降りて見せろ、とそそのかされることになります。「神の子なら」危険なことをしても守られるはず、高いところから飛び降りても無傷なはずだろうというその挑戦はまるで子どもの屁理屈ですが、このようなやりとりを通して聖書が伝えようとしているのは、神の子なら安全が保障されているはずではないか、というその考えもまた神のはたらきをそのようにして自分の身に引きつけて考えることの誘惑であるということです。イエスはその誘惑に対して、「主を試してはならない」と答えます。
このようにしてイエスが晒される誘惑は、わたしたちが日常生活でさらされる誘惑とおなじ性質のものです。
その誘惑は、たとえば「神」は自分のために便宜を図ってくれる、特別に顧みてくれるはず、と願うことに似ています。それは、神が自分の生活に安心や安全を提供してくれると信じることに似ているものです。
ところがわたしたちは残念ながら、よく知っています。「神」を信じる者、洗礼を受けて教会の言葉で「神の子」になった者も、飢えることがあり、病を得て、喪失を体験することがあります。誰もが恐れる禍や誰もが経験したくない人生の苦難を、「神の子」である教会員は、教会に関わらない人と同様に、経験し、味わい悲しみ、苦しみます。「神の子」は悲しみも苦しみも経験するということを、わたしたちは残念ながらよく知っています。
「神」はわたしたちの人生に安全や安心、平安をパックにして提供することはありません。ただわたしたちがそれを忘れてしまいやすいだけです。
「キリスト教はご利益宗教ではありません」とは誰しもどこかで聞いたことのあるフレーズでしょう。わたしたちはそのことを自分はよく知っているつもりになってしまいます。けれども、困難に直面したとき、苦難が降りかかってきたとき、わたしたちは「神ならば」わたしに対して、こうしてほしいと願ってしまうものです。「神ならば」わたしに対して、苦しみを遠ざけ、困難を味わわせないで直ちに救ってくれるはずだと思ってしまいます。
「神の子ならば」こうしてみたらどうだと主イエスが晒される誘惑は、現代において、教会に連なるわたしたち「神の子」が生活の危機の中で晒される誘惑と何も変わるところがありません。
神をわたしの安心を提供するための存在としてしまうこと、神をわたしの満足を満たすための存在にしてしまうこと、そんな誘惑はいつでもわたしたちのまわりに与えられています。誰だって安心して満足して暮らしたいものですし、人は誰だって平安を求めるものだからです。神に安心、安全のパックを人生に提供してほしいと願うことは当たり前の人間の感情です。
だからこそ主イエスは福音書のなかでそれらの誘惑を拒絶してみせます。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言う言葉はわたしたちに教えます。てっとり早く、わかりやすく自分を満たすものではなくて、生きるときに根源的に大切なものへと、イエスはわたしたちの目を向けさせようとします。
また「あなたの神を試みてはならない」そうイエスが語るときには、聖書はわたしたちに教えています。神を信じているからと言って、わたしたちの人生がすべてうまくいき、すべて思うとおりに事が運ぶなどと思い込むことの過ちを、聖書は教えています。
「誘惑する者」の誘いを退けてみせることを通して、イエスは神がどのような方であるのかをわたしたちに教えているのです。イエスは、神がわたしたちにとっての安全安心平安をわかりやすくパックにして提供する方ではないと言うことを伝えているのです。
できれば、この大切なことをわたしたちは忘れずにいたいものです。神はわたしたちの欲求のために存在しているのではない、ということを覚えていたいものだと思います。
神はわたしたち一人ひとりに命を与え、そしてそれぞれがその感謝も忘れやすく、自分の安全と安心ばかりを求めるものである、その弱さを抱えたままで生きられるために、イエスの十字架によって、わたしたちをありのままに受け入れる方です。神はただ、愛の故に人を造り、人を生かす方です。わたしたちの人生がどれだけ脆弱でも、不安に満ちたものであっても、神はわたしたちを生かしています。わたしたちに神が見えなくても、神はそこにいます。それを覚えていることはわたしたちの人生の危機に置いてこそ、わたしたちを神にしっかりつなげてくれるでしょう。
たとえ人間は忘れやすい弱い生き物だとしても、せめてレントの期間くらいはそのことを思い出し、心に刻みたいと思います。もし、わたしたちがその期間に神に正しくつながり、神は自分の満足や安心のための存在ではないということが、しっかり刻みこまれていれば、他の期間を神に従って生きられることもあるでしょう。
一年365日のうちの40日間、約10分の一の時間を占めるレントの期間を、ただ、神が神であること、わたしたちの思いを超えて神がおられることに感謝して、「主を拝みただ主に仕え」よ、と命じられているその意味を学びながら歩みたいと思います。
祈りましょう
わたしたちのいのちの造り主である種なる神さま。わたしたちはいまレントの時を歩んでいます。ひとり子の受難を心に刻むこの時、わたしたちがあなたのものとして自分のいのちを受け取ることができるよう、わたしたちをあなたにしっかりとつなげてください。わたしたちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。