苦しみの中にあるもの:ヨハネ黙示録 7:1-17
黙示録は、非常に難解な箇所です。
幻想的な表現が続いています。私たちにはあまりなじみのないスタイルの文章です。ある部分はそのまま読むとおどろおどろしくもあり、その黙示録の終末観は不安を掻き立てるような部分もあります。
しかし、ヨハネの黙示録のメッセージの主題は、「ローマ帝国による迫害という危機にあるキリスト教徒たちを励ますために書かれた」手紙。そこには当時のキリスト者にとっての「希望」が語られているのだ、という点を見逃さずに読み進めたいものです。
ヨハネの黙示録とは、どんな書物か。
「黙示」とはギリシャ語の「隠されていたものが明らかにされる」という意味です。黙示録は後世のキリスト教徒の間でも、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議があった。
しかし、その難解さと誤用される危険性を割り引いても、ヨハネ黙示録のもつ「慰めの豊かさ」のゆえに、聖典として認められている。
ご存知の通りヨハネ黙示録は、新・旧約聖書、キリスト教の聖典の最後にあります。神の人類救済の歴史は、旧約聖書の最初、創世記の天地創造をもって始まり、この黙示録によって、世の終末と新しき世界の出現を知らせて完成します。
黙示録は怖い書物ではありません。世界の破局(悲惨な終わり)の予言書ではありません。むしろ、神の人類救済の最後の完成を、聖霊によって導かれた幻(ビジョン)によって書かれたドラマ。
非常にドラマ性に富み、BC160~AD130 ごろに最盛期を迎えた、黙示文学の形をとって書かれています。そして、その前後に手紙形式の挨拶を加え、形を整えています。
宛先は、古代ローマの属州である、小アジアにおける七つの主要な教会です。
前後の手紙形式を除いた黙示文学部分は、朗読劇の形式をとっており、新約聖書において同じような表現が、他に 10 箇所ほど見られます。このような文章は、黙示録だけではないということです。
特に、旧約聖書には多く見られ、イスラエル民族が危機的状況に直面した時、預言(神の言葉を預かる)を最もよく伝える方法として、黙示文学という形がとられた。イザヤ・エゼキエル・ヨエル・ゼカリヤなどの書物に見られるのです。
この著者は、イエスの弟子の元漁師のヨハネではなく、また、ヨハネの手紙のヨハネでもないと見られている。しかし、多くの教会宛に手紙として本書を書き送っているところから、非常に有名なイエスキリストの使徒であった。
彼は、福音宣教中に迫害者らによって捕えられ、獄中において牧会的な意味でこの書物を書き送りました。
「自らは牢獄の中から」、「迫害という現実の中にある人々に向かって」書かれた書物。生命の危険という捕らわれの身の中から、迫害という、世に理解されない、家族にも誰にも受け入れられない、知人友人が裏切る、という苦難の中にある人々に、「主にある希望」を告げている。そのような書物なのです。
今日の箇所では、まず神の使いである 4 人の天使が登場します。この天使たちは、吹いてくる風から世界を守る役目を負っています。世界は紙のように薄っぺらで、吹き付けてくる風に負けてすぐに崩壊してしまうほど、もろいものとして描かれています。
この手紙の作者にも読者にも、「世界は崩壊寸前のもろいものだ」という理解が共有されているのでしょう。もし天使が一瞬でも気を抜いて力を緩めたら、わたしたちはたちどころに滅びてしまう、という危機感があります。
その 4 人の天使の所に、もうひとりの天使が現れて命令します。「我々が、神のしもべたちの額(おでこ)に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」。まだ世界が吹き飛んでしまうのを防ぐように、と命じている
のです。それは、「神のしもべに刻印を押してしまうまで」の間。この「刻印」は「神の刻印」である、と説明されています。
刻印とはどのようなものか。かつて、家畜が「誰が持ち主であるか」、ということを示すために、牛やなどに「焼きごて」を押し付けて印をつけていました。
かわいそうではありますが、所有者の印。神の刻印とは、その存在は「神のものである」という意味の印。神のものとされる人々と、そうでない人々とを見わけるための印です。
そしてこの刻印が既に押されている人々の数は、14 万 4 千人である、と説明されます。現代の私たちには、非常に少ない数の様に思われますが、聖書の中に「万」という数が出てくることは極めて稀であり、当時の人々にとっては想像を上回る大きな数でした。
しかも、聖書の中では「完全」を意味する 12×12 の倍数。旧約の民イスラエル 12 部族と新約のイエスの 12 弟子が組み合わされた数であるといわれています。そうした、「完全」で「膨大」な人々に「神の刻印」が既に押されている。といいます。
これは、殉教者の数を示すともいわれています。多くの人が殉教の苦しみの中にあり、今後も多くが苦しめられると。大いなる苦難です。
しかし現代を生きる私たちは、恐怖をもってこの箇所と数字を読むべきではないのでしょう。この苦難を通して、主の愛の福音が迫害者に打ち勝ち、キリストの福音が世界に、この日本に、私たち一人一人に伝えられ救いに導かれていることを、感謝したい。
「神は全ての人々を救おうとされている」と。どれだけ「この世の終わりだ」と思われるような苦難が襲いかかって来ようとも、それは決して終わりではない。苦難を通して、神様の力が世を覆うのだと。
9 節からは、大地から天の国へと場面が展開します。
※再度、9節~17 節をお読みください
いかがでしょうか。難解ではあるかもしれませんが、明るいイメージの中で迫害に苦しむ人々を慰めています。そして力強くもあり、不思議な説得力をも持っています。
黙示録は、「慰めの書」であるといいました。
慰める。…どのような人を慰めたいのか?→愛する者を殉教で失った人々へ。
また、自分自身が捕らわれと死の不安の中にある人々への。
殉教と迫害。だけを指すのではない。「この世が終わるのではないか」と思えるような出来事。「もう終わってほしい」と願うほどの絶望。
何にために生きているのか。希望はあるのか。先の見えない不安。
全ての痛みと悲しみの中にある人々への、「痛み・試練を通して、救いに預かる。
罪と苦難は子羊の血でぬぐわれ、涙はその毛でぬぐわれる。」と今回の箇所は…「喜べ!多くの人が神の救いに預かっている。その子羊の犠牲による救いは、全ての民へと向かうのだ。特に、痛みと試練の中にある人々から、主は救いの、自分の大切な所有物としての刻印を押してくださるのだ」と高らかに宣言しているのです。
我々のために、主の子羊が死んでくださり、私たちはそれを受け入れた。そのこと、その一点において、我々の額には刻印が押された。決して消えることのない、神の所有物となったということの刻印を。
私たちは、自らの罪において、一人羊飼いからはぐれ、暗闇に迷い込んでいる。
いや、暗闇とも思わず、それはそれで楽しんでいるのかもしれない。不安な日々の中で、自分自身や未来にあきらめを感じる時もある。
しかし神は、私たちをその中からキリストと出会わせ、引き戻してくださる。
そして、消えることのない刻印を魂に押してくださる。水と聖霊によって。
黙示録は、いや聖書全体は、慰めの書物です。この世の処世術やこの世における成功の導き手ではありません。この世における勝利への書物でもありません。
最も惨めで、小さきものとして我々のために死んでくださったイエス・キリストによる、私たち一人一人の「救いの先取り」という、慰めの書です。
だからこそ黙示録はいいます。…本当の慰めを知ったものとして、主なる神から目を背けることなく、信頼して信仰の道を歩みなさい。と勇気付けます。
どんな迫害も、どんな苦しみも、どんな辱めも、どんな痛みも、どんな悲しみも、どんな不安も、どんな惨めで哀れであっても、主の子羊は、自らの血で我々を洗い清め、導いて、その目から涙をことごとくぬぐってくださる。…だから恐れるな。
コロナの中で、不安は尽きず、心も体も疲れ切っています。いつまで続くのか、この先どうなるのか、目を背け、自らの今と明日に希望など探せず、あきらめたくもなります。
そんな中にあっても、だからこそ、この黙示録の言葉と信仰に勇気づけられたい。この御言葉に立ちたい。…「私たち一人一人は、神の刻印を押していただいた者だ!」という、絶対的な揺るがない安定を。
社会は、人々は大いなる不安の中にあります。しかし私たちの日々の生活と信仰の歩みは「神の所有物」としての喜び証ししてゆく日々です。すでに救われた者として、その感謝の礼拝と祈りをささげ、そして一人でも多くの人々をその救いへと導く証しの日々を送る。
今ある命。そして、未来の命の約束。…「救いの先取り」を知らされた者として、今与えられているそのすべてに感謝し、大いなる不安の中にあるからこそ、力強い信仰者の歩みをなしてゆきましょう。
祈り:
ご在天の父なる御神。あなたの御名を賛美いたします。
あなたは、無から有を生み出し、悲しみから喜びを生み出し、困難から希望を生み出してくださいます。
どうぞ、私たち一人一人が、家庭が、教会が、社会が、世界がコロナの不安とそこからくる二次的な不安の中にありますが、希望をもって歩むことができますように。
あなたはこの時、この教会の歩みの中で証を立ててくださいました。1月31日の臨時総会において、新たな牧会者を備えてくださいました。教会においても、幼稚園においても大いなる希望です。どうぞ、教会員一人一人が新たな牧
者とともに希望に満ちた歩みをなしてゆくことができるようにお導きをお与えくださいますように。
心からの感謝を、主の御名によって祈ります。アーメン。
2021
12Feb