2021 年 01 月 31 日
説 教「行きつ戻りつ、ゆっくりと」
使徒言行録 9:1~9
新しい「主の年」2021 年を迎え、早くも一月が経とうとしています。
先が見えない、毎年そんな感覚を抱いて歩み出しを為してきたように思います。そうした中で、例年を遥かに凌駕する不透明さをこの年に対して感じています。これから私たちはどうなっていくのか、先を見通すことができません。
こうした想いが強いからこそ、例年にも増して神の御旨に聴き、真の信仰に歩みたいと願って歩み出しました。
紀元後を A.D.、紀元前は B.C.と表現します。紀元前を意味する B.C.は Before Christ の略語で、キリスト降誕前の時代を表します。これに対して、A.D.はラテン語の anno Domini から導かれています。anno Domini とは「主の年」との
意味の言葉。キリスト教では、イエス・キリストの降誕によって明確な時代区分がなされ、新しい神の時が開始されたのだと考えています。それが anno Domini(主の年)と言い方に表れています。どんな一年であっても「主の年」として、年月を丁寧に・大切に数える、こうした想いをキリスト者たちは抱いて二千年以上を歩んできたのです。
代々のキリスト者たちと同じ信仰に立てば、私たちは 2021 年という新たな「主の年」を迎えたのです。私たちの心には不安や思い煩いが満ちているとしても、備えられ歩み出すよう求められているのは新たな「主の年」です。このような状況ですが、新たな「主の年」が与えられたことに感謝して、主イエスの励ましの下に歩みを進めていく、そのような信仰に立ちたいと願います。
今日は「使徒言行録」から、パウロの「回心」に関する証言を読んでいただきました。
キリスト教の大伝道者として活躍したパウロ。異邦人伝道を力強く担い、幾つもの教会を小アジア地域に立ち上げました。この人の働きや神学、それを著した手紙がなければ、キリスト教は成立はしなかったと言っても過言でないで
しょう。
この人はサウロというヘブライ語名で活動していたユダヤ教徒でした。ファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビ・ガマリエルの下で律法を学んだユダヤ教エリート。過剰なほどの熱心さを有しており、ユダヤ教内で新たに興っていたキリストを救い主(メシア)と信じる者たちの信仰を認めることはできず、キリスト教信者たちを厳しく迫害したのです。ステファノを殺すことに賛成して処刑の場にも立ち会い、今日の箇所によれば「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」おり、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」と考えて、権威づけのために大祭司から書状を受け取り、それを帯同して迫害をさらに進めようとしていたのです。
こうしたサウロがダマスコへの旅の途中で、幻の内に復活の主イエスに出会ったのだと証言されています。3 節以下にこうあります。
「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』」。
この出会いを通じて、サウロは大きく変えられます。キリスト教徒を迫害していた者であったのに、ギリシャ語名パウロを用いてキリスト教を宣べ伝える伝道者へと大転換されるのです。この出来事をパウロの「回心」と言います。
心を改めるという「改心」ではなく、心が 180 度転換する「回心」です。サウロという名で活動していた迫害者から、パウロというギリシャ名の伝道者へと転換される、これは何とも信じがたい劇的な変化です。とても不思議なことですが、こうした人間の変化を復活の主イエスが導かれたのだ、と聖書は証言しています。
新型コロナウイルス感染症により、私たちの日常は激変しました。変化の大きさに未だ戸惑いながら、どうするべきか模索を続けています。状況への対応や思索、生活様態を変化させる試みは、この年においてもきっとまだまだ続いていくことでしょう。
コロナ関連の本も多く出ていますが、おやっと思う題名の一冊を見つけました。岸見一郎さんの『これからの哲学入門』、副題に「未来を捨てて生きよ」と記されています。未来を捨てるとはどういうことなのか、妙に気になりまして買い求めました。
著者・岸見一郎さんはアドラー心理学の専門家で、入門書『嫌われる勇気』で有名になった方です。アルフレッド・アドラーは、19 世紀末から 20 世紀初頭に活動した精神科医・心理学者。フロイトやユングと並んで現代心理学の基礎を確立したひとりとされています。アドラーはフロイトの共同研究者でしたが、1911 年に決別して独自の心理学を形成していきます。
ユダヤ人の家庭に生まれ、ユダヤ教的な環境に歩んでいたアドラーですが、心理学を極める中に到達した共同体感覚から、単一民族に縛られない、より広い共同体形成を志向し、キリスト教へ改宗しました。こうしたアドラーの心理学を踏まえて思索が展開されていますので、『これからの哲学入門』には、聖書の話が幾つも登場し、ユダヤ教・キリスト教の信仰を抱く人々の著作からの引用が多くなされています。
副題に繋がる話は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』から導かれたものでした。ユダヤ人として収容所に送られたフランクル。収容所では様々な「選抜」が行われたとのこと。ガス室に送られるか、あるいは違った収容所への移送などが、ちょっとした偶然で決まったというのです。生と死はいつも背中合わせで、収監されていた人々には全く先が見えずに苦しんでいたというのです。
ある年、間もなく迎えるクリスマスにはきっと解放される、そんな根拠のない噂が収容所内に広まったとのこと。多くの人がこの噂に一縷の希望をかけ、縋りついたのです。しかし、クリスマスが来ても何ら事態は好転しません。期待をかけた未来に裏切られることで、多くの人はさらに深い絶望へと陥り、急に力を失い死に至ってしまったり、諦めから自暴自棄になる者たちが多く出たのでした。
こうした事実を踏まえながら、私たち人間は、どうしても希望を不確定要素の多い未来に置きがちだが、静かに問い、見つめるべきは、どんなに苦しいとしてもいま直面している現実、いまここに希望を発見し、苦難の中にもしっかり生き延びていく、そうした捉え方や生き方が大切ではないかと、著者・岸見さんは説いています。
最終章は「私たちができること」。何らのアクションを起こさずとも状況は改善するとの淡い期待に立つのではなく、冷徹に考え、現状にどう生きていくかを問うことが求められています。真実を見極めつつ価値観を変化させる、「首だけ巡らすのではなく、身体全体の向きを変え」ることこそが求められているというのです。
こうした語りの中に、劇的な生き方の転換の実例として、聖書の証言するパウロの「回心」に触れられています。パウロの「回心」に示唆を受け、一人ひとりが現在に対応したあり方へ自らの転換していく、そんな必要があるということでしょう。
パウロの「回心」に続いて、キルケゴールの言葉が引用されています。著者の主張を導いているキルケゴールの言葉を、今日は共に味わいたいと願っています。
“回心はゆっくりと起こる。前進してきたのと同じ道のりを逆行しなくてはならないのである。回心は完成されるということがなく、むしろ逆もどりしてしまうことがありうるのだから、おそれとおののきをもって取り組もう”(『キルケゴールの日記』)。
この言葉を引いた上で岸見さんは、“キルケゴールの(いう)回心のように、行きつ戻りつ、ゆっくり変わっていいと思います。元に戻ったらまた繰り返す、結果がすぐに出なくても焦らずにできることをしていくだけです”と語られています。
復活の主との出会いにより、パウロは「回心」しました。同様の「回心」、40年、信仰の道を歩んできて、それが自分の身にも起こるとは考え難いと感じています。しかし何ら変わらなくてよいのか、現状に照らしてそれは許されないことでしょう。この苦難の只中で私にも変化が求められています。焦ることなく、現状を冷静に見つめ、行きつ戻りつ、ゆっくり変わっていく、これが課題だと思わされています。
バビロン捕囚、50 年もの長きに亘ったこの苦難を通じて、ユダヤ教は大きく形を変えました。長く神殿での祭儀を通じて神を礼拝していたのですが、神殿を破壊され、遠くに拉致され、異教の環境に生きざるを得なくなった中、言葉を中心とした礼拝へと大きな転換を為したのです。聖書文書もそうした中に編まれたのであり、こうした変化が現在のキリスト教の礼拝へも繋がっています。
キリスト教は、主イエスの福音、十字架と復活、そしてパウロの宣教を通じて、民族中心のあり方から離れて異邦人へと伝道し、各地の宗教的行事などを再解釈しながら飲み込み、世界的宗教へとそのあり方を大きく変化させていきました。
これらの変化の背後には、神の導きと共に、信仰者たちの篤い祈りと不断の努力があったのは確かです。それぞれの時代・状況において真実に神を礼拝し、神の御旨にどう生きるのか、このことを真剣に問い続けたからに他なりません。
昨年からのコロナ禍の中で、バビロン捕囚によるユダヤ教の変化、イエス、パウロ以降のキリスト教の変化、その双方をさまざまに思わされています。
今日の招詞として箇所、「コリントの信徒への手紙二」の 4 章 16 節にこう宣べ伝えられています。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。
私たちの「内なる人」、信仰に立っての歩みは「日々新たにされていきます」と語られています。この告白は、パウロの日々の「回心」を語り継ぐものです。
劇的な「回心」以降、もう変わらなくてもよいというのではなく、伝道の旅を続けて越え難い苦難に出遭う中、パウロは日々の変化を神にあって導かれたのでしょう。
このパウロの少しでも倣って歩みたいものです。劇的な「回心」ではなくても、行きつ戻りつゆっくり変わっていく、日々、少しずつでも変化してこの苦難にも適応し、いまこの時代の最中で神を信じ、互いに祈り合い・支え合っていく、そんな信仰と教会共同体の形成をこの年も共に進めてまいりたいと願います。
〈祈り〉
主なる神さま、
あなたが新しい主の年、2021 年を与えてくださいました。この恵みに感謝し、主なる神を心から賛美いたします。
大きな不安を抱え、先行きの不透明さの中に苦しみつつの歩みです。神さま、主イエスの希望の光をもって、私たちに豊かに臨んでください。現在の苦難の只中にも、あなたにある確かな希望の実感を与えてください。そうした希望に立って、状況に対応して変化していく者としてください。
あなたの御心に沿う「回心」を日々求め、行きつ戻りつであっても、信仰の形成の道筋を聖霊の導きに伴われて進むことができますように。
私たちはあなたが一人ひとりを必要に応じて変化させ、御旨のために豊かに用いてくださるようにと心から祈り求めます。礼拝も、交わりも、この時代の最中で、真の神を賛美し、御心を証するあり方へ、その変化・変革を導いてくださいますように。
この祈り、私たちを愛し、救い、導いてくださる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン