2021.1.24
マルコによる福音書 6:1〜13
「旅する教会」
[ナザレの故郷にて]
イエス様が弟子たちを連れて故郷ナザレに帰られたとき、弟子たちは嬉しかったに違いありません。従うやいなや、悪霊を追い出し、死人をも蘇らせる我が主のすべてが素晴らしい。文字どおりすべてを捨てて従った弟子たちに後悔などなかったはずです。
しかし、故郷ナザレで弟子たちが目の当たりにしたことは、イエス様が拒絶されるという現実でした。イエス様は、ほとんど奇跡を封印されました。しなかったのではなく、できなかったのです。
なんてことでしょう。イエス様を拒絶するなんて。この方を誰だと思っているんだ。大工だったとか、貧しかったとか、そういう人間目線でこの方を見てはいけないのに。不信仰者め。信じないから何も良いことが起こらないんだ。弟子たちのそんな声が聞こえてきませんか。
[そして派遣へ(物語の連続性の中で)]
そして、弟子たちは派遣へと送り出されていきます。
マルコによる福音書は、イエスのナザレ帰郷の出来事と、12 人の弟子たちの派遣の記事が連続しています。同様の内容はマタイも記していますが、マタイは、マルコとはつながりが逆です。マルコのように、帰郷—派遣ではなく、派遣(10:5〜)—帰郷(13:53〜)となっています。(ルカは、ナザレでのイエスの福音宣教を 4 章で記していますが、その時はまだ弟子はいません。弟子の派遣はずっと後の 9 章になります)
マルコはこの出来事の連続性の中に、「イエスに従うとは?」を考えているようです。直接的には弟子たちへの問いかけです。不信仰というこの世の現実(ナザレ)のただ中で、どのようにして福音を伝えていくのか(派遣)。わたしたちも今、この問いを携えて、弟子たちと一緒に旅へ出かけていきましょう。
[一人ではなく]
イエス様は、弟子たちを初めて遣わしまします。イエス様と離れて旅する初めての体験です。しかし、一人ではなく二人づつ組みになって遣わされました。
一人ではなく二人。聖書の大切な教えのひとつです。イエス様の命令の言葉の真意を聞き取りたいと思います。
旧約の世界では、裁判の証言は一人では認められませんでした。(申 19:15 他)また、イエス様も「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と語っています。(マタイ 18:20)
そういえば、パウロもそうでした。彼は 3 回の伝道旅行を必ず誰かと一緒に旅をしています。一回目はバルナバ。2 回目はシラス、途中からテモテ。3 回目は、テモテとテトスがパウロの協力者です。旅の中でもいろんな人と出会ってパウロは伝道しました。聖書が教える「二人、三人の力」は、わたしたちに福音を伝える働きでの大切なことを教えています。そのことには最後にもう一度触れます。
[助けられ、家にとどまる]
8 節 9 節の命令を聞きましょう。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして、下着は 2 枚着てはならない。」
パンや金を持つなというのは、パンを持っていたら野宿できるし、金を持っていたら宿屋を借りようとしてしまうから、それを持つなと言っています。そして、下着を 2 枚着てはいけないというのは、これは自分の体にかける上掛けのものですが、これも持っていると野宿できます。つまりイエス様がこの命令を言われたのは、あなたがたが福音を伝える時には、野宿でも宿屋を借りるのでもなく、誰かの家で世話になりなさいということでした。
そして、10 節 11 節の命令です。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
「その家にとどまりなさい」という命令は、他の家の方がもっと居心地がよさそうだという理由で、そこに行ってはいけないということです。つまり、居心地がいいとか悪いとかという動機で動いてはいけない。
「足の裏の埃を払い落としなさい」という命令は、福音を伝えても聞いてくれなかった場合の態度です。このような言葉は、旧約聖書の中でも言われていて、絶対に許さないという拒絶の言葉です(列王上 20:10)。しかし、イエス様がここで言われた言葉は、「証」として残すための振る舞いでした。福音を聞いてくれないことで、あなたは関係を切りたくなるかもしれないけど、神とのつながりの中で、「証」は覚えられている。証は神が用いて生かしてくださるから。あなたはただ語ることに集中しなさいということです。
この派遣命令の全体を通して、イエス様が仰ったその心とは、人に助けられて
生きるという、そのところにとどまり「福音を伝えていく働き」をしなさいと
いうことでした。ただ、弟子たちはまだこのとき、その心はわからなかった。
[弟子たちに伝えたいこと]
イエス様がナザレに帰郷した時、弟子たちはイエス様を受け入れない人々を目の当たりにして、腹立たしく思ったことでしょう。イエス様でさえ「不信仰に驚かれた」というのですから、弟子たちの苛立ちは容易に想像ができます。もう二度と関わりを持ちたくない。こんな人たちに証などしても意味がない。そう思ったことでしょう。
ところがイエス様が、派遣する弟子たちに伝えたことは、自分たちが特別な存在で、特別な何かをもっていて、福音を伝えるのではない。そうではなく、人に助けられて生きることを学ぶ中で、福音を伝えるということでした。受け入れられなかった人にも、「ありがとう」という言葉を言えること。証としてその言葉を残すことでした。
[福音を伝えるとは]
福音は、人から人へと伝えられます。神様の愛を人が人に伝えるのです。そこには、人間関係のつながりがあります。聖書が語る人間関係は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」(マタイ 22:39)また、「相手を自分より優れた者と考える」ということです。(フィリピ 2:3)聖書が考えている人間関係の基本にあるのは、わたしがいて他者がいるのではなく、他者がいてわたしがいるということです。誰かを生かすためにこのわたしがいる。誰かを愛するためにわたしがいる。福音を伝える働きは、このような聖書が示す人と人との関係性の中でこそ伝えられていきます。
イエス様を思い起こしてください。イエス様は故郷で受け入れられませんでした。でも、イエス様はその人々のためにも十字架に向かわれていきます。その姿は、自分が死んで誰かを生かすという生き方です。やがて、弟子たちにも見捨てられます。弟子たちはイエス様と一緒にいるときは、教えを聞いてはいてもその心はわからなかったのです。
助ける側であるはずのイエスが罵られ、鞭打たれ、釘を打たれ、裸で死んで、極悪人として葬られた。特別な人が特別でなくなったとき、弟子たちも足の裏の埃を払い落とされる存在となってしまいました。そして、関係を断つのです。誰とも関わりを持たないように、家の戸に鍵をかけたのでした。(ヨハネ 20:19)
でも、復活のイエス様は弟子たちの前に現れて、聖霊の息吹の中で、「赦しなさい」という言葉を与えられました(ヨハネ 20:23)。自分を赦せ。人を赦せ。それをあなたができる、できないではなくて、わたしと共に生きる中で学んでいきなさい。ここから本当のあなたがたの派遣の旅が始まる。
ここから、あなたが神に赦されたものとして、あなたもまた赦して生きることを始めなさい。そして、人に助けられて生きることを心から「ありがとう」と言える人になりなさい。
福音を伝える働きは、一人ではなく「二人、三人の力」が大切だというのもこのことです。助けるのではなく、助けられて仕える人になりなさい。
[旅する教会]
マルコによる福音書では 16 章の最後で、復活のイエス様が弟子たちを派遣して行く様子が描かれています。
「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(16:20)
あの時わからなかった派遣命令の本当の意味が、この最後のところで語られています。それは「主が彼らと共に働いた」というように、主に背負われて生きることの大切さです。
今日は四谷新生教会の創立記念日です。これまでたくさんの人が教会に集まって福音を聞いたことでしょう。でもナザレでの出来事のように、イエス様を受け入れることができなかった人たちもたくさんいたはずです。多くの教会は年々人が少なくなって、老齢化もしています。個人個人の力も落ちてきました。
コロナ禍の中で一緒に礼拝できないという現実もあります。でも、教会(わたしたち二人、三人)はその中にとどまり、この世へと派遣を命じられています。
わたしたちはキリストを背負って、頑張って伝道していく旅をするのではありません。「わたし」の力、キリスト者だからこうしなければならない、そんなことは考えてなくていいのです。そうではなく、キリストに背負われて生きる旅を続けることです。
イエス・キリストに従う信仰とは、自分の弱さをイエス様に担いでもらって生きていくことです。毎日の生活をイエス様に助けられて生きていく。心からありがとうって言えない自分だからこそ、矛盾を抱えながらも、イエス様に学び助けられて生きる。そこにこそキリストが宿る信仰がある。そこにこそ教会に呼び集められた一人ひとりの旅がある。その旅の途上で、誰かの隣人となることを主は願っておられるのだと思います。
創立記念日の今日、ここまで導いてくださった神の恵みに感謝しましょう。そして、これからもイエス様に背負われて旅を続けていく教会として、イエス様の心をわたしの心として歩んで参りましょう。イエス様の十字架を心に刻んで生きるお互いとなれますように。
共に祈りを献げましょう。
天の父なる神様
四谷新生教会を今日まで守り支えくださったことを覚えて感謝いたします。
たくさんの人々がこの教会の門をくぐり、イエス様を通してあなたと出会ってこられました。
また、この教会から新たな旅をして行かれた方もおられます。
すべてがあなたの御手のうちにあって、イエス様に背負われて生きているわたしたちです。
そのことを忘れることがないように、イエス様の心を思い巡らすことができるように、聖霊がお一人おひとりに語りかけ、導いてください。
あなたに支えられて生きること。あなたに赦されて生きること。
そしてわたしたちが、与えられている恵みによって、赦しと和解をもたらす者として生きること。
そのような心へと私たちを引き上げてください。
四谷新生教会に呼び集められた、お一人おひとりが、神の祝福と恵みのうちにあって、霊と心と体が守られますように。
そして、日々の生活の中で出会う隣人へ、イエス様の心を伝えていくことができますように導いてください。
私たちの希望はイエス様、ただあなただけにあります。
この祈りを、わたしたちの希望の源である、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン。