「新たな年に」 ヨハネ福音書1:1-5
新たな年を迎えました。なんと先行きの見えない、あきらめの空気に満ちたスタートでしょうか。東日本大震災後最初の年末年始でも、もっと熱を持って皆が歩みだしていたように思います。
このような一年の最初、ヨハネ福音書の最初の御言葉に聞くことから私たちの新たな歩みを進めてゆきたいと願います。
さて、創世記の最初には、神が「光りあれ」と言われることで光ができ、大空あれ。水と水をわけよ。と言われてそのようになったことが書かれています。
神の言葉によって天地万物が創造された。神の言葉はそのように「すべてを生み出す力」を持つ言葉だと。
私たちの発するただの声ではない。いや、私たちでも、言葉によって人を傷つけ、心を殺すようなこともあり、言葉によって勇気づけ力づけ慰めることもある。人の言葉であってもそれだけの力を持つが、「神の言葉」とはそれとは全くの別次元。力と命と真理と愛の言葉。無から有を生み出す力。
また、「言葉」はそれを発した者の「想いと意志」が込められている。発した者「そのもの」であるともいえます。だから私たちの言葉には責任を伴いますし、私たちも言葉で何度も失敗をしています。
このヨハネ福音書の「言葉」には父なる神のご意思がある。その意思をもった言葉には「命があった」といいます。…ここでの「言」(ギリシャ語:ロゴス)は、神の命の「ことば」そのものであるイエス・キリストを指す。(ロゴス・キリスト論)
イエスさまをロゴス、「言」と言い表すのは、大変に興味深い。ここにはギリシャ哲学(ヘレニズム文化)の影響がある。黙示文学。
神の意志、想いである言葉。神の意志、想い、神自身であるイエスキリストこそが、すべての初めにあった言葉であり、世界のすべての源。そこに、そこから、その言葉に、私たちを活かす命がある。と表している。
ヨハネ福音書の語るこの言葉。難解でもあり美しい言い回し。これを、「聖書の原理・原則を、ヨハネ福音書なりに詩的に説明している」と、とらえてしまってはよくありません。
「聖書はこう言っている。イエスさまのことをこう説明している。ギリシャ文化、ローマの人々も理解しやすいように説明を」…その側面はあるにしても、聖書神学の説明と読むだけでは少し足りないのではないか。
ヨハネ福音書はここで、聖書神学でのイエス観の原理や原則の説明ではない、もう一つの側面で語る。それは、信仰告白。信仰告白的な言葉として語っている。
イエスキリストは、天地創造の前から、父なる神と共にあった。
「キリストは初めからいた。」とは、私たち一人一人に、はじめから終わりまで、私たちの存在する前から死まで。いや、死のその後もずっと関わり続けてくださっている。という約束の言葉。信仰告白。
主イエスはすべての最初からおられ、これからもずっといる。時間を超越し、永遠である。時間すらも神とイエスキリストのものであり、そのイエスキリストは、すべての人のために光としてお生まれになり、共に生き、共にうめき苦しんでくださっている。
私たちも初代教会の人々のように、ヨハネ福音書の著者のように告白したい。
実際、この時代の初代キリスト教会は不安定だった。苦しんでいた。求めていたのは説明ではなく、自らの「私たちは、この御言葉に立つんだ!」という想い。
このヨハネ福音書が書かれた教会は、ユダヤ人社会から締め出され、またローマからも迫害の始まりの時代にありました。
しかし信仰者たちは、聖書の言葉、主イエスの言葉にこそ「永遠の神の命の言葉」があるとの信仰の想いを確かなものとして、信仰の告白をこの福音書に描いている。
迫害・無理解・無関心の中で、イエスさまの言葉を笑う現実こそ、光と命を失った世界でしかない。そのような、迫害の中にあっての「命がけの信仰告白」。
私たちはここに立つ。迫害者であるあなたがたとは違う命を生きる。奪われても奪うことのできない命を得る。まことの言葉、「その言葉に生きる命」に立つ。と。
2000年続く代々の教会は、そのように信じ求めることを通して、暗い闇の時代の中にあっても、そこから命の光を見いだして来たし、困難を乗り越える力を与えられて来た。大いなる不安の時代である迫害を乗り越えてきた。
今、私たちは新しいウィルスの脅威の中にいます。そこからくる経済的な不安。人々の分断。価値観の違い。疲れと攻撃性、そして傷つき。世界を見れば、国家間の争いや緊張。
私たちは個人的にも、社会的にも、世界も、闇の中です。
また、世界の教会も試練の闇の中を歩んでいます。イースターもクリスマス礼拝も、そして今も礼拝を行えない教会がたくさんある。私たちのこの四谷新生教会も、きっと非常事態宣言中は難しいでしょう。
だからこそ、私たちも初代教会の人々と同じく、この御言葉に力づけられたい。
いや、私たちもこの御言葉を高く高く掲げたい。代々の教会と共に、初めからの言葉に、その命に立つことによって光を掲げる。
コロナの中にあって、闇の社会にあって、光を掲げる。そのようなキリストの群れとされていきたい。
新共同訳1:5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
新改訳1:5:光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
…私たちは聖書に触れ、どのような苦難の中でも光を見つめ、知り、学び、聴き、光により頼んで歩んでゆきたい。
まだまだコロナをはじめとした困難は続きます。新たな年も、あきらめの空気、分断の社会の中で「光の子」として明るく平和を創造する者として歩んでゆきたいと願います。